村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
さらに、村上中正氏の1971年試論は、高等部=後期中等教育の限定的閉鎖的な考えを教育制度からも打ち破る根拠のひとつとして次のことを述べている。
普通科を設けてほしいと切実要求
1965年の京都府立ろう学校授業拒否事件は、1965年から1966年で終結したのではなく、高等部の生徒たちは後輩たちに「伝言」していたとされている。
ろう学校を卒業したら「手に職がないと生きていけない」と言いつづける教師に対して、生徒たちは実際を見ていた。
自分たちの学習状況が、小学部は小学校と同じ、中学部は中学校と同じレベルで教えられていない。
それなの義務教育を終えたとされる、高等部に行くと「義務教育すら充分でない」自分たちは職業技能に集中せざるを得なくなる。
それでいいのだろうか。
という漠然とした気持ちに、ろう学校を卒業した先輩の話、ろう学校から中学校に行き、高校に行った先輩の話が「火を放った」のかも知れない。
○職業科のほかに普通科を設けてほしい、との要求を出している。
京都ろう学校高等部の教師は
なぜ「職業学科が必要であり普通科設置は必要ない」
と言い続け対立したのか
しかし、「後期中等教育の保障」と普通科設置について検討を始めた」とされながら、それは延々と伸ばされ、1960年代末にはろう学校にこそ職業学科が必要であり普通科設置は必要ない、とする高等部教師の意見まで京都府教育委員会へ提出されている。
この高等部普通科設置問題は、聴覚障害児の後期中等教育と関連してしばしば高校の教師と意見対立があったようである。
2000年代に入ってようやくろう学校高等部に普通科設置が具体化されて、実現している。この間、村上中正氏が異動した京都府立山城高校の教師と京都ろう学校高等部の教師は「対立」したと考えられることが多々見受けられる。と書かれている。
社会を流動的に捉えず、限定的に捉えながら、ろう学校生徒を限定的条件に追い詰める。これらの考えが高等部の教師にあったとされている。
これに対して、高等部の教師自身の限界を生徒に押しつける考えが根底にあったとする意見は、当時の1965年の京都府立ろう学校授業拒否事件資料を熟読すれば肯定出来る。
だが、すべてを生徒に対する差別や手話に対する差別で終止されている傾向が多すぎる。