communion of mind with mind
Bさんの声は、弱々しく聞え、圧迫された声、と思い込んだが、Bさんは平気でたばこを吸いすたすたと歩いて行く。
店の人にBさんの声が通じていたのであるが、と述べた。
Bさんは、産まれてから今まで自分の声を聞いたことがないと言う。
ろう学校の口話法で相手の声を読むことが出来たし、発声訓練で声が出るようになったと周りの人は言ったが、自分にはそれを確かめる術はなかったとも言う。
すべて自分が発したであろう音声とそれを受けとめる相手の表情や口話を読み取とり「返事」で自分の音声が通じているか、どうか、判断して経験を積み重ねてきたという。
ろう学校卒業して以降、家業の配達の仕事で街の隅々の住所を覚えて、配達をした。もちろん集金もした。集金の時は、配達先の人と話をしてお金を受け取る。
間違ってはならない仕事だった。
配達先の人びとは、自分が聞こえないことを充分知っていたが、それに甘えてはならないと自分をいさめ続けたと言う。
そんなBさんが、手話も、口話も熟達した「わけ」は後で述べる。
たばこを買うときのBさんの声を聞いて、正直びっくりした自分なのに、Bさんと手話で話をしていくことが増えるにつれ、Bさんの声が気にならなくなり、どこに居ても気にならなくなってきた。
ひとよっては、「慣れによる聞き取り」と「慣れていない聞き取り」と断定して言われたことがあった。
「Bさんの声になれてしまったからだ」と思われる人も多い。
たしかにはじめは分からなかったり、聞き取れなかった「ことば」が聞き慣れたのか、聞き取れるようになることも多い。
けれど、Bさんとの手話による会話で、より深くBさんの気持ちが解り、言いたいことが予知できたとき、Bさんの声が「充分聞き取れる」ようになっていったように思われる。
発声と手話を知ると「聞き取りにくい声」が聞き取れるというのは、人間は音声だけで「聞き取る」のではないメカニズムがあると思うようになった。
同時に、Bさんのコミュニケーション方法を決めつけないで充分尊重しなければならないと悟った。