communion of mind with mind
アヤキさんの手話を、同行したカメラマンに手話通訳した。
「あの穴に逃げ込んで過ごしていた」「あの穴に自分たち子どもたちは中に入れ、親が子どもを抱き込み背中で穴の入り口を塞いでいた」「そこは、安住の穴だった」「食べるものもない中で、崖からおりて水をすくって子どもたちに飲ませてくれて親とまた穴に戻った日々は頭の中に仕舞い込まれている」「自分たちが生き延びるとが出来た穴を見つけることが出来てうれしいことこの上ない」
だが、カメラマンは納得出来ないと
「ナゼあんな高いところにある穴に上り下り出来たのか?」
「あんな狭い穴で親子にとって安住の穴だったのか?」
と立て続けに聞いて来た。
それを手話通訳したのだが、アヤキさんからの返事はなかった。手話をしないから当然のことであった。
だが、カメラマンは、聞こうとすることを、キチンと、正確に、手話通訳しないから「アヤキさんが返事出来ないのではないか」と手話通訳者に言ってきた。
そのまま「キチンと、正確に、手話通訳しないからアヤキさんが返事出来ないのではないか」とアヤキさんに手話通訳した。
それでも、アヤキさんはなんのアクションも起こさなかった。
そして南下して原爆投下地点の記念碑の方向へと歩みを進めた。
アヤキさんが応えなかったこともあるだろうが、アヤキさん自身も「ナゼあんな高いところにある穴に上り下り出来たのか?」「あんな狭い穴で親子にとって安住の穴だったのか?」と尋ねられても答えようがなかったのではないかと思える。
「登る」「下る」「穴にはいる」原爆投下の直後の一変した状況下では、「ナゼ」そうしたのかなどと考えることすら出来ない生命維持の行動がなされていたからではないだろうかとも考えられた。
答えない、応えない、ことに想像を絶する状況があったのではないだろうか。
手話通訳を通して「聞けば」「応え」「答え」が返って来るという「思い込み」を持つ人々とそれまで何十人と出会ってきた。
手話さえ出来れば会話は成立するという思い込み。
そこには、「応え」「答え」られないことが、「応え」「答え」であるという考えは存在しない。
人々をすべて抹殺しすべてのものを焼き尽くし、放射能を残す原爆。
その中で「奇跡」と言って、もいいほど生き抜いてきた人々はに「質問」して「応え」「答え」を待つのは、残酷の極みともいえると思いアヤキさんの後を追って歩き続けた。
その時、「残酷の極みとも言える思い」を吐露し初めた人と出会うとは予想だにしなかった。