手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
押さえつけが強いほど抵抗と創造の力が
形成されてきた手話と人間性
「抵抗の手話」「相対するコミュニケーション手段を纏めあげてきた手話」はとても壮大であると思うし、ろうあ者もみんなも押さえつけられればそれに抵抗して新たな価値を見いだす力を持っていると考える、と書いた。
手話を云々する人々は多いが、これらのろうあ者もみんなも押さえつけられればそれに抵抗して新たな価値を見い出し創造されてきた手話をどこまでも大切にする人は極めて少ないように思える。
抵抗と自由。
この表現は、ろう学校で発語が強要されたり、とても難しい漢字を覚えさせられたり、さらにろう学校にもいけなかったろうあ者の人々が、語り合い、意思疎通をはかる中で手話が上からの押しつけではなく、自分たちの創造で創りあげられてきた歴史的経緯をきちんと踏まえると人間が「制限された条件」であってもそれを創造的に可逆する能力があることを見いだされる。
手話の本質は、まさにここに重要な基礎がある。
人間の持つコミュニケーション能力を
限定的にしか捉えていないのではないか
そういう経緯を考えず、短絡的に手話をこれだけ、とか、この手話は間違っている、これが正しい、と手話を教える人々は手話が言語であるという以前に人間の持つコミュニケーション能力を限定的にしか捉えていないのではないかとあえて述べておく。
手話の形成と表現を学ぶことは
人間には限界がない学べる重大な取り組み
手話がろうあ者の中でどのように創造され、お互いが心を通わせるものになっていったのかを調べるのは無限に近い。
かといって、そのことを放棄していいとはならないだろう。
残念ながらその取り組みは遅れすぎているが、それでも手話がろうあ者の中でどのように創造され、お互いが心を通わせるものになっていったのか、その表現方法を学ぶことは人間には限界がないとさえ思わせる重大な取り組みである。
底流にある手話でろうあ者が
お互いにこころを通わせるために
創造されてきた手話と認めるべき
各地域で表現される手話は、その地域でしか解り得ない手話であるかも知れないが、底流には手話でろうあ者がお互いに心を通わせるために創造されてきた手話と認めるべきであって、画一的な手話でないとしてその手話を踏みにじることは、ろうあ者の人間性をも踏みにじることでもある。
手話がろうあ者の中でどのように創造され、お互いが心を通わせるものになっていたからこそ、ろう学校で学んだろうあ者もろう学校に行けなかったろうあ者も互いにこころを通わせるすべに熟知している。
読み書きと
手話を教え合うろうあ者を多く見て
中学生や高校生が手話を学ぶための手話テキストを作成したときに、あえて、このことを表現した部分をテキストの中に入れたのは以上のような教訓があったからである。
読み書きがほとんど出来ないろうあ者に、読み書きと手話を教え合うろうあ者を多く見てきたからこそ、底流には手話でろうあ者がお互いに心を通わせるために創造されてきた手話の存在を明らかにしたが、ほとんど注目されなかったのは残念である。