手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ろう学校では手話は
一切禁止されていたと繰り返し述べる人々
ろう学校では口話教育が徹底されていて手話は一切禁止されていた、と繰り返し述べる人々へ「手話は一切禁止されていた」てはいないことを調査した結果を報告してきた。
例えば、口話法が徹底されていたことを否定するならば、手話唯一であると主張するのはおかしくなはないだろうか。
口話法が徹底されていたことを全面否定するか、手話でしかないという手話全面肯定、の二者択一ではないと思う。
口話法を否定して音声で発語できるのに口を閉じて手話をしている人々を注視すると、喉頭(発音器官)が動いていて音声を発している動きをしているのに、無理に発語しないようにしていることが解る場合が多い。
口話は唇を読むというのは正確ではない
口話は、唇を読むというのは正確ではない。
首から上部を動かさないと唇を変化させることは出来ない。人間の身体は部分部分のパーツの組合せではなく、身体の部分の部分部分が連関している。
ひとつを否定することで他の正当性を主張することは可能かもしてないが、口話と手話の問題を対極に置いて述べるのは、結果的に手話の「知恵」をも否定すると敢えて記しておきたい。
ろうあ者の人々は、多くの人々の中で生き、生活してきたが故にはなしことばも当然のように手話の中に取り込んでいる。
シラバスということばの項でも述べたが、カタカナ用語も巧みに手話の中に取りい入れられてきた歴史がある。
新しい時代 あたらしい流行語を
ろうあ者同士の理解の仕方で
タクシーは、戦前京都で導入されたのが早く、手話では円(円タク)を走らせたり、乗合自動車や戦後は、京都の数値の手話表現で「百」(百円で乗れる車)などなどさまざまに表現されていた。タクシーだからタ・ク・シーと手話で表す事はなかった。
新しい時代、あたらしい流行語をろうあ者同士の理解の仕方でコミュニケーションされてきていた。
このことは数え切れないほどあるが、ろう学校では口話教育が徹底されていた、と述べる人々は、強制的に強いられたことに対する人間に共通する「抵抗力」を見ていないのではないかとさえ思える。
人間に共通する「抵抗力」と
ろうあ者の「抵抗の手話」
ろう学校で戦前戦後学んできた京都のろうあ者と数え切れないほど多くそのことを話したことがあるが、口話だけを強調し体罰を加える先生の前では大人しくしていたが、見つからないところでは自由に口話も手話も使いながら話をし、お互いが共通して理解出来る手話があれば、それでいい、それで話し合おうと自然に一致した手話が創りあげられていた、という。
ろうあ者みんながわかり合える手話
この押しつけられた教育方法に対して従順になるのではなく、逆にそれを採りいれられながらも自分たちが話しやすい方法を考えた。
その主なものがみんながわかり合える手話であった。
ろうあ者の「抵抗」の中から手話が創造されてきた側面を重視しなければならないとも考える。
「抵抗の手話」「相対するコミュニケーション手段を纏めあげてきた手話」はとても壮大であると思うし、ろうあ者もみんなも押さえつけられればそれに抵抗して新たな価値を見いだす力を持っていると考える。