手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
子どもが産まれたどのように育てるのか、赤ちゃんが泣いても解らないではないか、育てる知識も能力もないではないか、産まれる子どもたちがかわいそうだ、などなどあらゆることが列挙されてろうあ者に突きつけられていたそれへの解答は、保育所入所ということだった。
今ならこの当たり前のことが、理解されなかった。人々にも行政にも。
ろうあ者だけを「優先」
させることは出来ない
自分たちだけを優先して、と
言っているのではない
保育所入所待ちの人々が多い中、行政はろうあ者だけを「優先」させることは出来ないと話も聞かないで断った。
ろうあ者やろうあ協会は、自分たちだけを優先して、と言っているのではないと保育所作りの運動をしている人々の輪に入り、保育所設置運動をしていた。
自分たちさえよければいい、のではなく、みんなも保育所には入れるようにと「多くの人々の要求とろうあ者の要求」をひとつにして、ろうあ者がなぜ保育所入所をねがうのかも訴えた。
独りよがりや身勝手さをなくして
優先、ではなくみんんあのねがいを実現する。
その中でろうあ者が言われている「 子どもが産まれたどのように育てるのか、赤ちゃんが泣いても解らないではないか、育てる知識も能力もないではないか、産まれる子どもたちがかわいそうだ、などなどあらゆることが列挙されて」いる苦悩を多くの人々に知らせていった。
独りよがりや身勝手さをなくして、事実の問題解決を望んだことは、とてもとても大切だった。
今はどうだろう。口話の大切さを主張する人へ手話を学んでいる人は理解を求めるとか、お互いが理解して一致を見いだすのではなく、敵対的になったり、感情をむき出しにしていないだろうか。
児童の保育に欠けるところがある
ろうあ者は学び続けた。
児童福祉法の「市町村は、保護者の労働又は疾病その他の政令で定める基準に従い条例で定める事由により、その監護すべき乳児、幼児又は第39条第2項に規定する児童の保育に欠けるところがある場合において、保護者から申込みがあつたときは、それらの児童を保育所において保育しなければならない。ただし、付近に保育所がない等やむを得ない事由があるときは、その他の適切な保護をしなければならない。」
を学んだ。そして、自分たちは、「児童の保育に欠けるところがある」と主張した。
「児童の保育に欠けるところがある」からこそ「保護者から申込みむ、そして子どもたちを保育所において保育してほしい」ということである。
本来ないなら、あるように
ということまでろうあ協会は理解して
「欠ける」ということばに手話を学ぶ少なくない人々は感情的怒りを示すかもしれない。
だが、手話を言語というならことばに意味も充分知っておいてほしいものである。
欠けるとは、あるべきものがない、という意味もあり、本来、児童福祉の精神から考えて「本来ないなら、あるように」ということまでろうあ協会は理解して行政に迫った。
このことがあったからろうあ者の子どもは、保育所に入所出来るようになったがその取り組みと保育所の人々の熱心な取り組みは書き切れないほどある。
聞こえない親の子どもを育てることは不可能と言うことへの解答のひとつは、保育所入所であり、保育所入所は子どもたちを育てる環境を大きく変えた。
それは、劣性、劣性遺伝と決めつけ人間無視の優生保護を打ち砕く大きなひとつでもあった。