手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
優生保護法に基ずく不妊手術をこの世で誰よりも信頼する両親が同意し、実施されていた。それを知らされないままでいた。
手話にならない全身の表現として
巨大きな哀しみは
巨大きな哀しみは、手話にならない全身の表現として。
喉を振り絞る「声」としてろうあ者から発せられる。
この胸が張り裂ける怒りと哀しみと嘆きが混線した表現は、とても音声や文字やその他の手段で言い表すことの出来ないことであった。
両親や家族もまた「胸が張り裂ける怒りと哀しみと嘆きが混線した表現」だった。
それもまた音声や文字やその他の手段で言い表すことの出来ないことであった。
手話通訳出来ない領域は、あった。
その場にいるみんなが「胸が張り裂ける怒りと哀しみと嘆きが混線」を共有せざるを得なかった。
ろうあ者だけでなく、多くの障害者や「役に立たないと断罪」された人々も同じであった。
哀しみや怒りは身近な人々に向けられる
最近、何でも手話と言ったり、ろうあ者の言うことは何でも受けとめるのが手話通訳者だという人々に出会うと、この例えようもない重圧に耐えきれないだろうと思えるが、すべてを過去のこととして振り返ろうとはしないことで、何でも手話と言ったり出来るのではないかとさえ思える。
哀しみや怒りは身近な人々に向けられる。だからかえって感情が先行してお互いが憎しみあうところまで達する事実を率直に見なければならない。
これもまた哀しみの事実なのである。
ろうあ者とともに過ごす家族の「素直な気持ち」をあらゆる避難で封じ込める人は多い。
ろうあ者の対する無理解だ、とかさまざまに言う。だがそう言う人に限ってよくよく話してみると、よくよく調べてみると、無理解どころか軽蔑の深層があることがたびたびある。
賞賛しても賞賛しきれない
京都のろうあ協会の果たした役割
お父さんやお母さんは、私を騙した。荒れる怒りの中で両親もろうあ者も涙をとめることが出来なかった。お母さんが悪かった!!許して!!絶叫は多くのろうあ者の家庭で広がった1960年代半ばから1970年代にかけて京都のろうあ協会の果たした役割は、賞賛しても賞賛しきれないものがある。