手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
「いたずら」と言うことで事が済まされていたろうあ者女性の悲痛な歴史は計り知れないほど多かった。
「いたずら」されたことによる中絶という問題は、また多くの黒い波紋を産み出していた。
それを一掃しなければならない、という機運とろうあ協会の知恵と力が大きくなった時に京都府幹部の「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、にするのが基本である」と言い切る姿に理性が甦った。
そのひとつが、1969年9月8日。京都。京都府庁で働く人々へろうあ協会が心を込めて配ったビラだった。
ビラを配れたことだけでみんなはうれしかった。
でも、ビラの内容は、京都府職員の心には届かないかも、とも思っていた。
え、労働組合!と話し合い?
ビラをまいてしばらくして京都府職員組合(当時:略称府職労)から、京都府ろうあ協会と話し合いたいとの申し入れがあった。
「え、労働組合!と話し合い?」
「ものすごく大きな労働組合らしいなぁ」
「労働組合って何する組合?」
ろうあ協会と労働組合の話し合いなんて過去まったく経験がなかった。
とまどうろうあ協会
京都府職員組合からは、ろうあ協会のビラは多くの京都府職員に読まれていた。
京都府に働くものとしてろうあ協会の訴えをもっと深刻に受けとめるべきだろう。
京都府の行政の本質そのものが問われている、組合としてろうあ協会とじっくり話し合って組合として取り組む方向をもっと打ち出すべきだという意見が組合執行部に相次いで寄せられたという。
どんどん広がっていた波紋
またろうあ協会のビラは、京都府の中で大問題として話題になり、京都府の福祉行政や医療行政を基本から見直すべきではないかと言う意見が出されていたという。
またろうあ協会が提起したことは、多くの障害児者団体に伝えられ、それぞれの団体・個人が要求と行動を起こしていた。
波紋は、どんどん広がっていたのである。