手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

「手話の読み取る能力」を単純に評価してはならない 第一回全国手話通訳者会議考察1968年

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手話を知らない人も

                    手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介

 

次に
③ 通訳者が会議内容を把握していなければならない。ことを指摘している。

 

手話通訳者が話者に
 聞き返すということは当然

 

 このことは、事前に会議の全容を把握しておかないと手話通訳できないということも含まれている。

 

 すでに貞広邦彦氏の提起の中であったが、フランス語が出来るからとフランス語通訳をされても、聴く側にフランス語通訳された言葉が通じなくては、手話通訳出来ないことと同じ意味合いを持つ。

 

 ここでは、手話通訳する側がフランス語通訳者にその通訳された意味合いを聞き直すことも含まれていいのではないか、手話通訳者が話者に聞き返すということは当然あっていいのではないかとという手話通訳上の「権利」権利ある。

 

 前提としてろうあ者との信頼関係と委任条件などなどの一定の配慮と条件が必要であるが。

 

平面の画像で手話を読み取る
「手話の読み取る能力」を評価する問題

 

 英語通訳やフランス語通訳するなどの外国語通訳者の中には、往々にして自負心が優っていて日本語で訳するがしばしば日本語として成立していないことを平然と日本語訳をすることで手話通訳者を当惑させることがあった。

 

  現代手話通訳士の資格試験や各種の講習会に於いて、ろうあ者の手話を平面の画像で読み取ることで「手話の読み取る能力」を評価する動きが濃厚である。

 

 その場合、映像に登場するろうあ者の手話とのであい関係によって、いわゆる「手話を読み取る」ことができる可能性の高低差が生まれるが、問題なのは人間同士のコミュニケーションを忘れてはならないという点である。

 

ろうあ者の手話を
平面の画像で読み取ることは

                   充分でないどころか

 

 ろうあ者の手話を平面の画像で読み取る、ことは充分でない。

 

 映像の視角によって手話の表現は大きく替わる。

 

 それだけではない、手話通訳者が、ろうあ者の手話が「読み取れない」=解らない場合は、

 

それはどういうことですか、
その手話はどのような表現ですか、
私には手話で話されていることが解らないのですが、解るように教えてくれませんか、

 

などなどろうあ者に問い返したり、教えを求めることなどで会話が成り立つ大切な要素を消し去り、手話通訳者に完璧性を求めて評価するがその内実は主観を助長するだけになってはいないだろうか。

 

 解らなければ、質問して会話する。

 

 これは相互の権利なのである。

 

  むしろ、このことが出来ない手話通訳者は、手話通訳をしているとは言えないのではないか。