手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承
迫害に屈しなかったのは
ろう学校の子どもの笑顔 特に重複障害の‥‥‥
自分自身の誤りを反省させてくれたのはろう学校の子どもたちの率直な人間性、と言い続けた藤井進先生。
その後京都府教育委員会学校教育課の指導主事になりへき地教育、障害児教育(特殊教育と呼ばれていた京都府教育委員会内部の名称の変更を藤井進先生が、問題提起し、内部討論を経て全国に先駆けて障害児教育という名称に変更させる。)を担当し、その後京都府政が変わったからという理由を表面に出さないで無仕事・無担当の「隔離部屋」に送り込まれる。
だが、その非常な迫害といっていいような、粗暴人事と待遇、重圧に屈しなかったのはろう学校の子どもたち、特に重複学級の子どもたちの満面の笑顔があったからだと述べている。
重圧に屈しない、と見た京都府教育委員会の一部は、養護学校やろう学校に異動を命じ、それでも言いなりにならない、として、混迷した中学校に移動させる。
教育とは何か、教育のありよう、
の教育行政と対照的な教育観
この時、藤井進先生は不平不満を言うこともなく教育現場で子どもたちと学べることが出来るようになって、京都府教育委員会の一部の思惑とは別に喜びに満ち溢れていた。
教育とは何か、教育のありよう、の教育行政と対照的な教育観を示された時期だが京都ではほとんど知られていない。
座して待つのではなく
活路を活路を切り拓く行動
藤井進先生は、ろう学校に赴任「1952(昭和27)年」して以降、ろう教育の向上や学校の施設設備の改善にはじまり、京都全体の障害児教育のため多くの人々に訴えて、京都府議会に粘り強く請願を行う。
すなわち、座して待つ、のではなく活路を活路を切り拓いたのである。
少なくない人々が、京都の障害児教育やろう教育などを京都だからなしえたことと断定する。だがそれは大きな誤りであろう。
教育を評論して現状維持か、問題点を改善しようと行動するのか。
後者を観る人は少ない。
藤井進先生が京都府や京都府教育委員会に府民と共に教育改善を求めた記録が京都議会議事録に記録されている。
この時代、教師が請願代表にっていることはほとんど無い。
次第に教育関係の請願が多くなると藤井進先生はその請願者の一員となり、京都議会議事録にその名前は出てこない。
行政を変える先頭に立って
京都議会議事録
1959(昭和34)年 2月府議会
□ ろう学校教育向上に関する請願 ろう学校分会代表 藤井進
1960(昭和35)年 2月府議会
□ 府立ろう学校の本館建築等に関する請願 ろう学校分会代表 藤井進
1962(昭和37)年
12月府議会
□ ろう教育に関する請願 1,需用費の増額 2,校舎の逐年計画整備 3,寄宿 舎職員の勤務改善および増員 4,教職員定数の増 5,調整手当の引上げ 6,旅費単価の引上げと研究費の支給 7,就学奨励費の拡大 8,重複障害児の教育保障 ろう学校内村上中正 他64名
1963(昭和38)年
12月府議会
□ 特殊教育振興について 藤井進 ほか 400名
1964(昭和39)年
2月府議会
□ 特殊教育振興について 舞鶴盲ろう分校 藤井進 ほか176名
6月府議会
□ 特殊教育振興について 重複障害児・重度障害児児の施設を本府に2カ所以上設置されたい 藤井進 ほか400名