村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
平等の手話
京都の手話で、平等は「左右の手のひらを胸の前で平らにそえて(合わせて、そこから)手の平を左右に広げていく」とのこと。
もちろん、併せて他にも平等・平和などの手話の意味合いもあった。
注目したいのは「そえられた手のひら」を平らに広げることで、穏やか、なだらか、平安、平等、平の意味合いも込められている。
手のひらの指一つ一つを人間を表しその人々が平ら=平和などなどとする意味合いが籠められていたとの記録がある。
平等でないことから育まれた差別の手話
ところが1960年代から1970年代にかけて平等であるはずなのに不平等である事を気づいたろうあ協会の人々は、「合わせた左右の手のひら」を「あわせた左右の手を左右に広げていく手話」でなく、「合わせた左右の手のひら」を「上と下」に動かした。
平等であることを、上と下にわける。
決して、上だけ、下だけにする手話表現でない。一部の人びとが表現する手話でない。
上と下に同時に手を動かす。
差別という手話である。
村上中正氏は、この平等、差別の手話の表現に注目したのであろう。
たしかにさまざまに評価し、言いつづけられた差別論の中でも最も平等と差別を明確に表現していることで、この手話の差別という表現は、卓越したものであったと言えよう。
二動作の手話に織り込めて
本来平等であるはずなのに不平等
平等な人々が、上位(上級などなど)と下位(下流などなど)と断定されて分けられ評価されて、分断される。
これを差別という手話で表すことで、人間は本来平等であるはずなのに不平等にさせられている深層を平等+上下という深い思いを二動作の手話に織り込めて表現されていた。
差別 人間を敵視しない想い
平等に差別を持ち込む想いは、京都のろうあ者に加えられた差別のさまざまな事件を解決する中で広まったとヒヤリングで伺い知ることが出来た。
繰り返すが、以上の手話はひとつだけでなかったことは明らかである。
後につくられた差別という手話も多い。がその意味合いとは基本的に異なった意味合いであったとも言えるのではないか。
差別を平等の中で考えたことは現代でも大いに注目すべき事ではないかと思われる。
すなわち、差別する者と差別する者と対立関係に置き、相互を相容れない、敵対的な関係でみることでない、とする考えが手話の根底に籠められている。
差別してもその人は人間平等を見失っている
あるひとが、ある人を差別してもその人は人間平等を見失っているのであって、自分自身の人間性を理解していないがそれを理解し合えたときに共通する人間平等で共感し合え、人間平等が広がるとする。
差別という手話の中に織り込められた関係を村上中正氏は、充分承知していたようである。
京都ろう学校高等部の授業拒否事件から4年後
事実。
1969年に京都のろうあ協会と多くの人々が取り組んだ、結婚差別、部落差別に村上中正氏は実を粉にして取り組んだという記録もある。
京都ろう学校高等部の授業拒否事件から4年後のことであるが。