村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論は、
集団の中で個人が埋没する、などなどの問題についてどのように考えていたのかを知りたいと考えた。
この問題を解く鍵として村上中正氏をよく知り、手話通訳集団を形成していた人にヒヤリング調査をおこなうことが出来た。教育ジャンルのことではないが、村上中正氏の人となりを知る重要な手がかりをえた。
手話通訳団をつくるように提唱
村上中正氏は、全国に先駆けてつくられた手話サークルみみずく会に手話通訳団をつくるように提唱し、定期的に手話通訳団会議を開かれていたが常時その会議に参加していた人から貴重な証言を得た。
以下概略を紹介する。
1,聾学校中学部で、聴覚障害集団を考えていたがそれは当時のろうあ協会だけを考えた集団ではない。難聴協会や中失聴者団体などさまざまあるがそれらを網羅した団体と言うことではないか。
特定の団体を示してそれの育成や指示はもちろん上下関係などを否定していたのが村上中正氏だった。だからどの団体もそれぞれ平等でそれぞれ大切な役割を持っているとした。
ろうあ協会の主張や一部役員の言うことを
無条件で受けなかった
例えば、ろうあ協会との関係で、村上中正氏は無条件でろうあ協会の主張や一部役員の言うことを受けるということは一切しなかった。時には、激しい論争もしてろうあ協会役員とも対立したこともある。だから、京都ろう学校の授業拒否事件のろうあ協会の行動、特にその後出された3・3声明には少なくもない問題があり、人間みな平等の立場から弱点をもっていると指摘。
ろうあ協会の一部役員と険悪関係
3・3声明には少なくもない問題
平等の立場から弱点をもっている
ろうあ協会の一部役員と険悪な関係になった時があったが、決して怯まなかった。
意見の自由をどこまでも尊重するが、根拠もない、一方的指示などには毅然と対抗した。
村上中正氏の「3・3声明には少なくもない問題があり、人間みな平等の立場から弱点をもっていると指摘。」したことはあまり知られていない。と書かれている。