村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求
日本独自の聴覚障害者教育を山城高等学校で実践
山城高等学校の聴覚障害者教育は、アメリカなどからのインテグレーション教育の導入を教育実践や社会的状況を分析し、日本の教育の有り様を思考し、それを現実化したものと考えられる。
以上のことから日本独自の聴覚障害者教育を、山城高等学校で実践しその方途を示したばかりか、教育の有り様を具体的に示したことで極めて先駆的意義を持っていたと言える。
日本独自の聴覚障害者教育を山城高等学校で実践されたことが、日本の教育の中で咀嚼され発展されなかった要因について以下概括的に考察する。
欧米の教育に「追随」する傾向
先ず第一に上げられるのは、日本の教育が、日本の障害者教育が欧米の教育に「追随」する傾向があることが挙げられる。
ある教育手法がある国で宣言され実行されると通常、十数年程経って日本に導入され、それが日本全体の教育課題であるかのように考えらている。
人種差別を「解消」する教育が 聴覚障害児教育に導入
先に挙げたインデグレーションは、1960年代アメリカなどで叫ばれ広められた。
この概念は黒人への人種差別を「解消」する試みからはじまっているが、なぜか日本では聴覚児教育に導入され1960年末に文部省(当時)が間接的に「推奨」した。
「推奨」した背景をここでは論じないが、「推奨」は推奨に留まらず聴覚障害児教育全体にまで拡がった。
なぜ聴覚障害児教育でインテグレーションが推進されたのかを考えると、聴覚機器の有効性が高まったこともあるが、聴覚障害児の場合に他の障害児と比べて普通校に入学させやすかったという安易な発想から生じているようである。
それが黒人差別をなくす公教育への入学と同一線上で考えられ、実施された。
しかしこのことを当時、どれほど多くの教育実践者が知り得ていたかは甚だ疑問である。
黒人差別の「解消」・黒人の公民権補償が背景にあることを充分知らずにインテグレーションという言葉に新しい聴覚障害児教育を見いだし、普通校に入学させることが目的化されていった。
欧米の教育の「模倣」でない教育の創造
山城高校の聴覚障害者教育
そのことを充分総轄されることなく時代は、1990年前後から欧米などで広めたインクルージョン・インクルーシブ教育へと展観され、2000年代になって日本でインクルージョン・インクルーシブ教育がさかんに主張される。
導入までの数十年の歳月の差違を考えるならば、日本の教育導入にあたりインクルージョン・インクルーシブ教育をすすめている諸国の状況を鑑みている文部科学省などの位置が鮮明になる。
日本独自にインテグレーション教育を総轄し、教育の有り様をいち早く提起し、その地域に合った教育をすすめようとし、またすすめたのが山城高校の聴覚障害者教育で合ったのではないか。
欧米の教育の「模倣」でない教育の創造が、なされたが故に山城高校の聴覚障害者教育が直視されないかったとも言えよう。