communion of mind with mind
手話通訳を永くやってきた仲間が集まって話した。
「昔の手話通訳」と決めつめられることに腹立たしい思いをしていることをみな吐露した。
手話をテキストで学ぶことがなかった時代。
手話通訳が資格で、優劣が決められなかった時代。
手話通訳になることは、簡単だった、と決めつける人には想像も出来ない時代。
手話をどのようにして学んだのか、の意見が出された。
繰り広げられる手話の動きについていけない
ろうあ協会の集まり。
聞えるのは自分一人。
手話ではなされることが、「飛び交う。」
目を皿のようにしても次々と繰り広げられる手話の動きについていけなかった。
ある人が手話で語る。それを見る。という光景ではない。
集まりに参加している人が、めいめい手話ではなす。
数人の人が同時に手話ではなして論議
目で追うのは、ひとりやふたりでなかった。
数人の人が、同時に手話ではなし、論議する。
が、十数分で「じゃあ こういうことですな」とまとまり、ろうあ協会の集まりで意見がまとまり、ひとつの議題が終わる。
何がどうなって、どのように決めたのかすら解らない。
後で、司会をしていたろうあ協会の役員さんに聞いてみると、出された意見の概要と決まったことが説明された。
めいめい手話ではなされていると思い込んでいたことが、きちんとひとり一人の意見として受けとめられていたのである。
信じられないことであった。
でも、そのことが手話を知り、手話を学ぶ第一歩であったように思える。
truth 複数で意見を交わすことが出来る手話