communion of mind with mind
かなり以前にしたためた文を
現代風に書き留めて欲しいとの依頼があった。
だが、筆は遅遅としてすすまない。
すすまないのには、訳がある。
その訳も含めて書き記して欲しいとの要望を受けるが、なおのこと筆は進まない。
そのことを知っていただいて書き記すことをお許しいただきたい。
自分の概念を明らかにしないまま、書かれた表現を嘲弄する人も多いようであるが、それらに抗して書き記したい。
人は、過去のこと、昔のことと十把一絡げにして済まされることに激しい抵抗がある。
過去のこと、昔のこと、としてすます人びとは、今も将来も空虚なものとして過ごそうとしているのではないかと思えるからである。
手話を学び続けてきた人びとのなかで、近年の手話をめぐる「主張」を危惧する人が多くなっている。
この手話は、正しい。
あなたの手話は、間違っている。
素晴らしい手話。
などなど挙げればきりがない手話にたいする「評価」「価値」は、はたしてそう言えるのかどうか、を探ってみれば、根拠無しに評価を下しているように思えてならない。
正しい手話やまちがった手話とする根拠はどこにあるのだろうかもこれから述べてゆきたい。
truth 正しい手話やまちがった手話とする根拠