communion of mind with mind
人間は、新たな体験をしたとき、その印象は強く残るものである。
ましてや知らなかった、いや知らされていなかったことを、知ったときの印象は心を揺さぶるものが強く残る。
手話を覚えはじめた頃、手話通訳として何かやらなければ、でも手話が分っているのか、という気持ちが右往左往して、複雑な気持ちになった時がある。
あるとき、ろうあ者のBさんが喫茶店に連れて行ってくれて、いつものごとく手話の極意を表現の手話で教えてくれた。
Bさんは、口話が達者でろう学校に口話教室がつくられたときの優等生で、手話教室の生徒と絶えず対立していたことを物悲しく語ってくれた。
口話教育で育ったから手話を否定するのではなく、全国の手話を熟知していた。
Bさんから学んだこと、手話のことは今だ胸の中で生き続けている。
喫茶店でホッとした気持ちになって帰ろ時、Bさんはたばこ屋に向かいたばこを買おうとした。
慌ててBさんのところに行って手話通訳をしようとすると、Bさんは私を押しとどめた。
Bさんは、店の人にたばこの銘柄を言って購入した。
そのBさんの声は、弱々しく聞え、圧迫された声、と思い込んだが、Bさんは平気でたばこを吸いすたすたと歩いて行く。
店の人にBさんの声が通じていたのであるが。
手話通訳は、勝手な気配りをしないで、必要なときに通訳をすべし、とBさんからの教えをその時はわからないでいた。