communion of mind with mind
過日、手真似と言うとひとりの方から激しい批判を受けた。
それは手真似と教えられて、手話を学ん出来たことへ熟知した上での批判であったかどうか払拭出来ないでいる。
激しい批判をしただけでその人は、批判する理由や根拠を何も言わなかった。
Bさんは、たえず「手真似(手まね)」と言い、手と見たことを頭の中に入れる(覚える)手話をした。
手・覚えるは、手真似という戦前からの手話とBさんは、言い切った。
あの時のBさんの真剣な表情は忘れられない。
Bさんは、当時少なかった手話テキストを見るよりも、ろうあ者と接して、それを「真似て」することを何度も強調した。
ろうあ者の人々の中には、手話と言うより「手真似」(てまね)と言う人も多くいた。
真似る、と言う手話は、手をさしのべて「つかんで」、頭に入れる、という動作が「真似」であった。
他にもあるが。
思えば、「学ぶ」は、「まねる」という言葉が語源であるから、どうも「明治時代の盲唖院」時代の「手勢法」などにも由来し、それがろうあ者の人びとによって取捨選択されてきたのではないか、と思えてならない。