communion of mind with mind
アヤキさんは、南へと細い道を歩き続けて自分が被曝したと思われる地点にやって来たが、どこだったか解らず右往左往した。
あたりは一変していたのは当然である。が、被曝して生きた人々も死んだ人々も水を求めていた。
水の近く、川の近くがアヤキさんの被曝した場所を探し当てる手がかりだった。
同時に穴に避難していた事も記憶にあっていて、水、人が避難できる穴を捜した。
時間は、刻々と過ぎた。
すべてが焼き尽くされ、時間とともに被爆地域は、一変していてビル・家が建ち並んでいた。
アヤキさんの被曝した地点は、捜しようがないように思えた。年月は被爆地を{風化}させているようにも思えた。
アヤキさんの動きは、「風化」させまいとする必死の小動きに見えた。
この行動、心情をどうしても多くの人々に知ってほしい遠い気持ちが増すばかりだった。
四方を見渡し続けたアヤキさんが、指さした。
「あの穴に逃げ込んで過ごしていたと」
と言う。
指さす方向は、崩れた崖の土がむき出しになっている処であった。
どこどこ、と聞いてわからず難度も見上げて穴を捜した。
やっと解ったのは、白っぽい土が露呈し崖の1mほどのくぼんだ場所だった。
アヤキさんは、もう少し深かったと言うが、その深かったようすを両手の巾でしめせるほどだった。
家族で逃げ込んだと言うが、「入りきれたのか?}と思い聞いた。
「あの穴に自分たち子どもたちは中に入れ、親が子どもを抱き込み背中で穴の入り口を塞いでいた」と手話と身振りで語られた。
それでも「そこは、安住の穴だった」とも語った。「食べるものもない中で、崖からおりて水をすくって子どもたちに飲ませてくれて親とまた穴に戻った日々は頭の中に仕舞い込まれている」という手話をアヤキさんはした。
でも、「自分たちが生き延びるとが出来た穴を見つけることが出来てうれしいことこの上ない」と言って、今はとても登れない穴を背に川沿いに南へと歩いた。
この時のアヤキさんの手話を、
「あの穴に逃げ込んで過ごしていた」
「あの穴に自分たち子どもたちは中に入れ、親が子どもを抱き込み背中で穴の入り口を塞いでいた」
「そこは、安住の穴だった」
「食べるものもない中で、崖からおりて水をすくって子どもたちに飲ませてくれて親とまた穴に戻った日々は頭の中に仕舞い込まれている」
「自分たちが生き延びるとが出来た穴を見つけることが出来てうれしいことこの上ない」
と羅列的に言うことが手話通訳になるのか、ととても悩んだ。
手話の動きはそうなのであるが、表情、場所など臨場感とともに表現される手話は、その場所でないと表現されることが出来ない手話であったし、アヤキさんの全身から発せられるコミュニケーションを受けとめてただ平易に「ことば」として喩えてはならないと諭された手話であったとこころに刻み込んだ。