Ⓒ豆塚猛
communion of mind with mind
2000年~2001年元手話通訳問題研究編集長へのinterview一部公開 個人名はイニシャル表記、写真は著作者の豆塚猛さんの了解などなどいただいています。また、手話通訳問題研究誌から一部引用させていただいています。
ろう学校に行けなかった71歳と83歳の二人の女性は
どこでどのようにして手話を覚えられた
質問
ろう学校に行けなかった71歳と83歳の二人の女性は、どこでどのようにして手話を覚えられたのでしょうか。
元手話通訳問題研究編集長
そのことを尋ねることを考えることもなく帰京しましたが、文と写真はカメラマンの豆塚猛さんにすべて手話通訳しましたし、手話通訳するうえで、どのようにことばで表現したらいいのか、どのように手話で表現したらいいのかなど悩んだり、引っかかったりすることは、ほとんどなかったですね。
自然に「手話通訳」して、カメラマンの豆塚猛さんが記事のための写真と話をメモる、と言うことだったと思います。
話の内容をすべて覚えている
ということは手話通訳していない
質問
手話通訳の中味は覚えておられないのですか。
元手話通訳問題研究編集長
手話通訳しているときは、双方の会話を通訳することでいつも必死でしたから、「中味は覚えて」いることはほとんどないです。
そうじゃないですか。
手話通訳しながら、話の内容をすべて覚えているということはありえない、と言うか、
話の内容をすべて覚えているということは、手話通訳していないと言えるのでは。
断片的には、覚えていることはあっても。
ろう学校に行っておられたなら
手話を知っていたと思うのですが
質問
ろう学校に行っておられたなら手話を知っていたと思うのですが。生徒たちと出会う、交流する、などのことがありますが。
元手話通訳問題研究編集長
必ずしもそうとは言えないのではないですか。
戦前ですから年齢を問わずろう学校に入学出来たこともあったのですが。
71歳と83歳の二人の女性が、善光寺方面を指さして、あそこにろう学校があった、と話されたことは覚えています。
崖っぷちのりんご畑から下るとろう学校がすぐそこ、と指さされたので解りましたから。
質問
ではなぜ、ろう学校に行かなかったんでしょうか。
元手話通訳問題研究編集長
二人表情で、ろう学校に行きたかった、という思いは胸に鋭く刺さっていますが、戦前は、生活に余裕。
ハッキリ言って貧乏だと、ろう学校に本人がどんなに望んでも行けなかった、ということは事実としてあまりにも多すぎた。
お金持ちが、行けるのがろう学校だったと全国各地で話されていました。
ろうあ者のためのろうあ者による学校
では、71歳と83歳の二人の女性が、どのような経過で手話を覚えたのか、と問われればそこまでゆっくり話せる時間がなかったという無念さが沸々と沸き起こります。
だだ、長野のろうあ協会の人たちに尋ねて、教えられた、家を訪ねた、ということなどを考えると。
ろうあ協会の人たちとの交流の中から手話で話すことを覚えられたのではないか、いやきっとそうだ、と思えます。
そういう意味では、ろうあ協会は、ろうあ者のためのろうあ者による学校だった、といえると思います。
質問
学校にもいけないで、りんごづくりをしていたお二人は幸せだったんでしょうか。
元手話通訳問題研究編集長
それはりんごの収穫お終えて帰宅される姿をカメラマンの豆塚猛さんが、写真を撮られています。
この一枚の写真を見て、その答えを見出していただければ‥‥‥