手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話の成立 秘められたろうあ者集団の創造  京都の手話

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  手話を知らない人も

  手話を学んでいる人もともに
  {新投稿}ー京都における手話研究1950年代以前の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー

 

 「1954年手話冊子」 第2章 (1)-1 手話の成立、

 

 我が國の手話言語の歴史は、明かでないが、明治十一年になって、京都に日本最初の盲唖院が創設され、その後の盲唖教育とともに変遷を遂げてきたのであろう。

 

 当時は盲唖教育はこの「手話」は法によっていたし、「汝馬ニ乗ルベシ」のような教科書の文章と手話を連合させていた。

 

 更にここでは、全校あげて(職員・生徒)さらには手話によるコミュニケーションの方法が行われていた。

 

   京都盲唖院で手話を学んだが

 

 生来、聾にして、家族の誰からも、伝達の方法について、教えられたことがなかった聾唖児達は、ただ簡単な「身振り」や「表情」しか知らなかったに違いない。

 

 教育とは、コミュニケーションにケーションを受けることであるとするなら、彼等は先ず、そのコミュニケーションの仕方について学習しなければならない。

 

 彼等は、「手話」を学んだのである。

 

 ところがこの手話が、どのようにしてして成立し彼等のコミュニケーションの方法となったかについて、僕逹は何も知らない。

 

 ただ、わずかに想像できることはー手話は、聾唖教育創始以降、成立したのではないかと言う事。

 

  手話の創造は
外来の漢字から日本文学に
再編成された事情に似通っている

 

 それから、彼等が、彼等同士の集団(封建的な日本の家族制度下では、明治以降になるまで、彼等に、このような機会は殆ど恵まれなかった)を構成するようになり、手話はそれ以前の「身振り」「表情」から、自然に抽象的段階へ発達したのと、これと平行して、寧ろ誰かの、又は、或いは特定の人々によって、人為的に創作されたものではないだろうかーという事ことである。

 

 ちょうどそれは、万葉仮名やひらがなが、外来の漢字から日本文学に再編成された事情に似通ってはいないだろうか。

 

 万葉時代の歌人達が、当時流行した万葉仮名の風潮を基礎におきながら、各人が各様に仮名、創作し駆使した事情に似通ってはいないだろうか。

 

 そうしていつの間にか、それらが固定して、現在にまで及んでいるのではないだろうか。

 

 ちなみに、現在、全国で用いられている「指文字」は、大阪市立ろう学校の大曽根先生が考案なさったのである。

 

 こうした仮定から、僕逹は手話言語の成立について(歴史的な立場ではなく)出来るだけ分析してみたいと思う。


 「手話の成立」で注目しなければならないのは、手話が盲唖院で取り入られたとしつつも 「全校あげて(職員・生徒)さらには手話によるコミュニケーションの方法が行われていた。」そしてろうあ者集団の形成により「手話はそれ以前の『身振『表情』」から、自然に抽象的段階へ発達した」と捉えている点である。

 

 さらにその手話が万葉仮名が「各人が各様に仮名、創作し駆使した」事を例にろうあ者集団の中で「各人が各様に創作し駆使」し「そうしていつの間にか、それらが固定して、現在にまで及んでいるのではないだろうか。」と手話は人為的に創られ教えられてきたが、ろうあ者集団の中でそれぞれが創作して、それが「固定して現在に及んでいる」と捉えている事は非常に重要な点である。

 

 繰り返し述べるが、手話はある意味強制されて教えられてきたが、それを受けとめつつろうあ者個人ではなく、ろうあ者の人々=ろうあ者集団がそれを改変、創造してきたと考えている。

 

 しかも、「固定」という用語を使っているが、「強要」された物を自分たちの共通コミュニケーションとして互いに認め合ってきて「固まって」来たという。

 

 手話は、ろうあ者個人のコミュニケーションではなく、ろうあ者のための手話だけではなく、ろうあ者集団のコミュニケーション手段であると言うことである。

 

 手話はろうあ者のものと言う前に、手話はろうあ者集団のものと考えるのが妥当であろう。

 

 個々の集まりによって形成された手話を検討、研究することは膨大な人々から聞きとり、記録して、その固定=共通性を明らかにすべきであった。

 

 日本ではそれがないがしろにされてきたが、京都で創られた1954年の手話冊子はそれに一矢を放っている点では貴重な資料であろう。