手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{続投稿}ー京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介ー
本人がうなづいているのに‥‥‥
あんたが違う手話通訳をしただろ
「わかった」「分かった」と「解った」
「うなずく」ことは、「了解」「わかった」ということでないという明石欣造さんの教えは、しばしばトラブルを引き起こした。
「本人がうなづいているのに、あんたが違う手話通訳をしたんだろう」
「わかったといっているのに、なにをいまさら違うことを言うのか」
と手話通訳をしていて怒鳴りつけられる場面があまりにも多すぎた。
言いたいことは言わんとなぁ
そのため手話通訳が
見ていたろうあ者から後で「ごめん、ごめん、分からんのに迷惑かけて‥‥‥手話通訳のあなたが怒られるなんて‥‥‥」と謝られることがしばしば。
「かまへん、かまへん、しんぱいせんと、言いたいことは言わんとなぁ、そのため手話通訳しているんやから」
と何度も話し合ったことか。
分からなくても分かったとしなければ、生きてこれなかった哀しみ。その哀しみを打ち破ることの困難。
でも‥‥‥手話通訳と共同でその哀しみを変革する見通しが持てはじめてきていた。
ろうあ者の多くの人々から
「読み書き出来る」ようになりたい
そうなると、ろうあ者の多くの人々から「読み書き出来る」ようになりたいと要求が出され「筆談教室」が開かれた。
筆談で意志のやりとりをすることで、自分の気持ちを現すことが出来るようになってくる。
自分の意見も言い表せるようになってくる。
文字を書けることは喜び。
書いた自分の文字は、自分の喜びの宝物。
文字は、残せるので何度も見直すことが出来る。
このことは、後々大きな意味と広がりを示すことになる。
この時代、ろうあ者の要求は「手話学習教室」ではなく「筆談教室」であったこと、自分の意見をあらわせるすべとしての文字を獲得することであった。