手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
錯覚させられていないだろうか
新しい用語があふれて
ろうあ者の哀しみの歴史とねがいともに、それを乗り越えていく、知恵と力が豊富に籠められた創造された手話は単純に理解することは出来ない。
それ故にそれへの理解を深めないことには現在の手話は理解も出来ないし、想像も出来ない。
新しい用語が、あふれているようになっている今日、ほとんどがカタカナ文字でみなは英語であるかのように「錯覚」していることは少なくないだろうか。
約20年前にギリシア語の
シラバスが講義概要から言い替えられた
シラバスという「新しい手話」が必要か
例えば、大学でシラバスということばがさかんに使われていて、それが当たり前のようになっている傾向がある。
大学で学ぶ聴覚障害者には、このシラバスという手話をどう表すのか、という問題が出るだろう。
シラバスは、主としてアメリカの大学で使われ、日本になんの十分な検討もなく約20年前に使われ本来の用語が拡大されて、教師が学生に示す講義・授業の授業計画、講義の摘要、講義要目、学年あるいは学期中の授業・講義の計画や内容の概略を各時限ごとに記したものなどの意味で本来のシラバスの意味とはどんどんかけ離れたことばとして無批判的に使われている。
だが、このシラバスはギリシア語でシラバスという言葉は、元来は羊皮紙のラベルを意味するギリシア語である。
べつに、シラバスという用語を使わなくてもそれまでの
「 一年または一学期間の、講義の計画と内容を解説したもの」
「講義概要」
のことであるため手話の「1年間・講義・計画・内容」「講義・計画」などなどで手話表現出来る。
むやみやたらにカタカナ文字で表現
本来の意味合いからそれている
むやみやたらにカタカナ文字で表現し、その意味合いが本来の意味合いからそれている日本の用語使いを無批判的に受け入れ、聴覚障害・ろうあ者の人々がそれを理解していないと決めつけている傾向、これと同じような傾向は手話表現にないだろうか。
一例を挙げたが、さかんに新しいことばと言われている中にすでにある言葉を取捨している傾向があり、それに合わせて手話を対応させならないと考える人々はいないだろうか。
手話の解明は極めて難しいが
それを絶対無理であるとは言いきらないで
それだからこそろうあ者の哀しみの歴史とねがいともに、それを乗り越えていく、知恵と力が豊富に籠められた創造された手話は複雑に入り込んだいのちのコミュニケーションによって簡単に解明するでではなく、極めて難しいが、それを解明することは絶対無理であるとは言いきらないで引き継ぐい必要があるのではないか。