手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者夫婦と聞える息子さん 消えることのない耀き

communion of mind with mind

 

  通知表でない次のようなことを話してみた。

 

「息子さんは聞えるから家の中二階の部屋で勉強しようにも織機の轟音で集中、出来ないかも。」と。加谷さんは、今まで思いもしなかったのだろう、「そんなにうるさいの。」と聞く。「息子さんは、それでも我慢して不満を言うことなく、自分なりの勉強をしているはず」と言った。轟音の中の暮らしの中で生きる親子の生活。加谷さんは、それに気づかずにいた。聞えないから。

 

と述べた。

 

 加谷さん夫婦は、轟音の中の暮らしの中で生きてきた。

 

 そのことは、息子さん充分知っていた。

 

 騒音の中で必死に生きる親子の生活。でも加谷さんには、それに気づけなかった。聞えないから。

 

「そんなにうるさいの。」と聞いて、息子さんには耐えがたい騒音の中でも必死になって活きていることを一層理解した加谷さんは、息子さんに出せる声と手話を「振り絞って」「ごめんね」と言ったとのこと。

 後日その話をうれしそうに私に語ってくれた。

 

 息子さんとそのことで話すことはしなかったが、明るくなり両親の仕事をより手伝ったり、ろうあ協会の取り組みにこころから連帯を現していたことが、その後の行動で理解できた。

 

  「そんなにうるさいの。」とたずねた加谷さん夫婦とその後、息子さんのそれからが耀きながらいつまでも消えることはなかった。

 

 

ろう学校の教師の「適職」ということばにある残酷な響き

 

    communion of mind with mind

 

  どんなに貧しくてもしあわせは、今にあると、言う加谷さんには悩みがあった。

 

 信頼関係が、増すにつれて少し浮かない表情をする時があった。

 

 どれくらいの月日が経ったのかと記憶が薄れるぐらいの時のことだった。

 

 加谷さんは

「息子が勉強しないで遊んでばかり困る」

と言う。

 

  織機が占領し、その隙間で暮らす、その隙まで親子三人が寝泊まりしているが、夫婦は交代で二四時間織機に付きっきりである。

  子どもへの愛情を注いでいても一緒にどこかに出かけたり、ゆっくり時間をかけて話し合う暇もない。
 
 思春期から青年期になる時期の繊細で複雑で、迷いながらも成長し続ける息子さんの気持ちが受けとめられないでいたようであった。

 

 息子さんは、とても繊細で思い遣り溢れていた。

 

 が、学校のこと、勉強のこと、これからのこと等などのことを交代で二四時間織機に付きっきり働く親を眼前にして黙して語らずにいたようであった。

 

 「加谷さん、息子さんの学校の通知表だけで勉強していないと思っていない。」

と尋ねてみた。

 

 加谷さんは、通知表の数字しか眼に飛び込んでこないと正直に言う。

 

 そこで、あえて、通知表の数字でない次のようなことを話してみた。

 

 「息子さんは聞えるから家の中二階の部屋で勉強しようにも織機の轟音で集中、出来ないかも。」と。

 

 加谷さんは、今まで思いもしなかったのだろう、

「そんなにうるさいの。」

と聞く。

 

 「息子さんは、それでも我慢して不満を言うことなく、自分なりの勉強をしているはず」
と言った。

 

 轟音の中の暮らしの中で生きる親子の生活。

 

 加谷さんは、それに気づかずにいた。聞えないから。

 

 ろう学校のすくなくない教師たちは、騒音を感じないから卒業生の「適職」のひとつとして西陣などの織物の仕事に就くことを奨励していた。

 

 教師たちの「適職」ということばにいつも残酷な響きを感じていた。

 

 

どんなに貧しくてもしあわせは 今にあると 手話で語り 提供された軍服姿の写真の真相

  communion of mind with mind

 

 手話は、具体的なものやさまざまな出来事の実際にあった客観的な事実に基づいて連関される。と述べたが、具体的なものやさまざまな出来事の実際にあった客観的な事実に基づいて「多くの経験内容が一定の関係に従って結合し、一つの全体を構成する」意味とも理解していいのではないかと思う。

 

 このことは、真の手話研究の極めて大切な事ではないかと思えてならない。

 

 そのために加悦さんが生前、みんなに私たちの生きてきた生活も知らせてほしいと写真を預かり大事に保管していたひとつを紹介させていただく。

 

  写真は、加悦さんの軍服を着た写真である。

 

 加谷さんは、軍人としての誇りを持ち生きたと思う人がいるかも知れない。

 

 だが、決してそうではない。

 

 徴兵検査で加悦さんやろう学校の友人や聞えない人びも、軍人として国のためにいのちを捧げない「非国民」「非人間」としての最大の侮辱を受けた。

 

 その数々の経験が結びあい「軍服」を着て、国のためにいのちを捧げない「非国民」「非人間」としての最大の侮辱を打ち砕いているひとつがこの写真なのである。

 

 加悦さんが、軍服を着ることすら許されなかった暗黒の時代。

 

 加悦さんは、あえて従兄弟の軍服を借りて写真を取り残した。

 それは、軍人になりたかったからでは決してないと言い切り、この写真を提供してくれたのである。

 

 眼の奥に、悲哀と真理を見詰める精神が読みとれてならない。

 

 軍服を着た加谷さんの姿。

 

 人間としての平等性が平和の中でこそ生き続けると逆説して訴えたかったんだと言われた。

 

 どんなに貧しくてもしあわせは、今にあると。

 

 

 

 

手話 客観的な事実に基づいてつながりかかわる

 

  communion of mind with mind

 

 京都の西陣は西と帯や織る帯、絵付けをした着物などなどで表現されていた。加悦さんは違った。頭上から降りてくる織物が家中這い回る手話が、西陣織だった。と述べてきた。

 

 これは、手話の違いや表現の多様性だけでは決してないことを銘記しておきたい。

 

 手話の単語ひとつで、その意味をひとつで言い表すしてその正否を断定するのは、加悦さんだけでなく手話をコミュニケーションの主要な方法として生き続けてきた人びとーもうほとんどのひとびとは亡くなっているーがその人びとへの限りない尊敬の意味があるとは思えない。

 

  近年、ひとつの手話の表現だけで、「ひとつのことば」を当てはめ、こうである、とか、むかしはこうであったとする傾向が広まっている。

 

 西陣西陣織りの多様な表現のいくつかを紹介したのは、手話を深く知る一助として述べたにすぎない。

 

  手話は生活と相まって複合した概念を形成
 
  手話は、生活と相まって複合した概念を形成し、それで自分や自分以外の人びとの考えー思考ーと分かち難く結びついているからである。

 

 手話は、具体的なものやさまざまな出来事の実際にあった客観的な事実に基づいて連関される。

 

  それは、筋道のある意味合いを持っていることが多い。

 

   客観的な事実に基づいた手話
 具体的表現から一般化されいく

 

  具体的なものやさまざまな出来事の実際にあった客観的な事実に基づいて連関された手話は、具体的表現から一般化されていく。

 

 具体的なものやさまざまな出来事の実際にあった客観的な事実に基づいて連関された手話として、具体的表現から一般化され例のひとつとして滋賀県の大津が、1891年(明治24年)5月の大津事件を表現したものとして挙げておく。

 

 

 

 

手話 西陣 織物が家に這い回る手話

 

  communion of mind with mind

 

 加悦さんの家は今はもうない。

 

 が、招かれた頃は、とてもとても小さな家だった。間口が狭く、戸を開けると織機が頭上から落ちるような感じで動き続けて、機械音が鳴り響いていいた。

 

 よく言われる「ガッチャンガッチャン」と表現される西陣地帯の織機の音ではなかった。

 

 正直言って居たたまれないほどの音であった。

 

 天井から織られた織物が舞いあがり、それが床で廻転し続ける。

 

 立つ隙間もないなかで、加悦さんは身体を横にして家の奥に入るようにと招いてくれた。

 

 苦労とひと言にして言えない苦労を重ねてやっと自分の家が持てた。加悦さん夫婦は、お茶を淹れてくれた。

 

 吞むほどに、どこで寝泊まりしているのかが気になって尋ねてみた。

 

 中二階の三畳ほどの隙間で、親子で寝泊まりしていると顔中笑顔で答えてくれた。

 

 家のすべては、織機が占領し、その隙間で暮らしているとも言う。

 

 かっては、着物姿の奥さんを見初めた加悦さんは、死んでもこの織物を奥さんに着せることは出来ないと言い、奥さんもまたそれでいいと微笑み返し。

 

 しあわせは、今にあると。

 

 手話で、西陣は西と帯や織る帯、絵付けをした着物などなどで表現されていた。

 

 加悦さんは違った。

 

 頭上から降りてくる織物が家中這い回る手話が、西陣織だった。

 

 でも、今が一番という加悦さん夫婦のことばには、書き切れない深い意味があった。

 

 ※ 加悦さんが生前、みんなに私たちの生きてきた生活も知らせてほしいと写真を預かり大事に保管していた。おそすぎて加悦さんに申し訳ないが、少し紹介していきたい。

 

手話の深層 うれしさのなかにある哀しみを知る

 

  communion of mind with mind

 

笑みの表情は、無限である。

 こころから湧き出た笑みで、手話で話される時、「うれしかった。家が買えて」「家が買えてうれしかった。」と「単純」に手話通訳することは出来ないと深く胸に刻んだのはこの頃のことだった。

と書いた。

 

 手話を単語だけで判断する人は、「うれしい」とすればいいと言う。

 

 だがそれに同意できないでいた。

 

 手話は、ひとつではなく連結し、時には連結可逆するからである。

 

 連結可逆は、手話で語る人びとが無意識で獲得されたものでもあると思えてしかたがない。

 

 一例をあげると、手話で「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」と繰り返されると、とてもうれしい、と手話通訳する人がいる。

 

 だがしかし、手話だけ見ているのではなく、その人の表情や全身の動きを見ていると「うれしさのなかに哀しみ」が表現されていることも多い。

 

 「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」と繰り返されるなかにある哀しみを知るのも手話通訳の重要なFactorとして捉えるべきではないか、とも思えるときがある。

 

 それは、テキストや資格試験で合否はつけられない人間としての手話通訳であると思う。

 

 

単純ni手話通訳することは出来ない 深く胸に刻んだあの日

syuwatan

  communion of mind with mind

 

  京都、西陣。織物の地域だった。
 
 かっては、織物の機械音が鳴り響き、共鳴し合い、その音を聞いただけで西陣の地域に居るとわかるほどだった。
 ガッチャン、ガッチチャンと表現する人も居たが、その音に耐えきれない人も多くいた。

 

 その西陣から少し離れた著名な寺院の近くに加悦さん(仮名)さんは住んでいた。

 加悦さんはなぜ、西陣の地域に住まなかったのだろうか、と考えたがすぐ答えが飛び込んできた。


 狭く小さな加谷さんの家は、西陣の地域より安かったからだろうと思えたからである。

 

 働きづめに働いてやっと手に入れた長屋の一角。

 

    「わが家」

 

 夫婦でやっと買えた家のことを話す加谷さん夫婦には笑みがこぼれ続けていた。

 

 笑みの表情は無限

 

 笑みの表情は、無限である。

 こころから湧き出た笑みで、手話で話される時、「うれしかった。家が買えて」「家が買えてうれしかった。」と「単純」に手話通訳することは出来ないと深く胸に刻んだのはこの頃のことだった。