手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話の深層 うれしさのなかにある哀しみを知る

 

  communion of mind with mind

 

笑みの表情は、無限である。

 こころから湧き出た笑みで、手話で話される時、「うれしかった。家が買えて」「家が買えてうれしかった。」と「単純」に手話通訳することは出来ないと深く胸に刻んだのはこの頃のことだった。

と書いた。

 

 手話を単語だけで判断する人は、「うれしい」とすればいいと言う。

 

 だがそれに同意できないでいた。

 

 手話は、ひとつではなく連結し、時には連結可逆するからである。

 

 連結可逆は、手話で語る人びとが無意識で獲得されたものでもあると思えてしかたがない。

 

 一例をあげると、手話で「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」と繰り返されると、とてもうれしい、と手話通訳する人がいる。

 

 だがしかし、手話だけ見ているのではなく、その人の表情や全身の動きを見ていると「うれしさのなかに哀しみ」が表現されていることも多い。

 

 「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」「うれしい」と繰り返されるなかにある哀しみを知るのも手話通訳の重要なFactorとして捉えるべきではないか、とも思えるときがある。

 

 それは、テキストや資格試験で合否はつけられない人間としての手話通訳であると思う。