アメリカにも音声言語(英語)に対応する手話と、英語の文法とは全く異なるろう者独自の手話があります。前者を英語対応手話(Signed English:サイン化された英語で)と呼び、後者のろう者手話を「アメリカ手話」(American Sign Languae:ASL)と呼びます。
と神谷昌明氏は述べる。
だがこれらの経過については、1960年代におけるアメリカ各州における手話についての研究。調査の結果だとはご存じないようである。
先にも述べたが、手話研究や言語解析には膨大な記録を含めた基礎資料を必要とすることをアメリカ全土とは言えないが、少なくない地域や大学で行われていた。
ろうあ者のろう学校の休み時間、家庭
ろう社会は各地域でさまざまである
「自然言語として学ぶ」とするなら
学ぶことも「さまざまである」と認めるべき
さて、神谷昌明氏は、ろう者は2つの言語、日本語である「日本語対応手話」と日本語とは異なる「日本手話」を使いますので、言語学的にみて2言語使用者(Bilingual)と言えます、と断定している。
その理由として、ろう者は聾学校に入ると「口話法」で教育されます。(手話は基本的には禁止:状況はかなり変わりつつある。)
「ろう学校の休み時間、家庭、ろう社会(Deaf community)などで、自然言語として学んでいきます。特に両親もろうである場合に顕著にあらわれます。」
ろう学校の休み時間、家庭、ろう社会(Deaf community)などで、自然言語として学ぶ、とするならば、ろうあ者のろう学校の休み時間、家庭、ろう社会は各地域でさまざまであるから「自然言語として学ぶ」として学ぶことも「さまざまである」と認めるべきだろう。
結論に導入するための手法
「健聴者は突然手話が理解できなくなる」
「ろう者同士が手話で話し始めた時、健聴者は突然、手話が理解できなくなります。そのような経験あるのではないでしょうか。ただ会話のスピードが速いというだけの理由ではありません。ろう者は日本語対応手話から日本手話へ切り替えたためです。」
この事例は、神谷昌明氏の「ろう者は日本語対応手話から日本手話へ切り替えたため」とは限らない。
健聴者は突然手話が理解できなくなる、のは健聴者の手話理解力量の場合もあるし、ろうあ者同士の会話がろうあ者同士で理解できていない場合もあるからである。
ろうあ者の手話のやりとりには、相手の話に問いかけたり、同じ手話を繰り返してそうなのいか、と確かめ合うことがよくある。
その場の状況を考えた前提条件を述べないで、「健聴者は突然、手話が理解できなくなります。」と断定的に述べられるのは「日本手話」へと導入するため例と思われても仕方がないでしょう。
「音声によることば」を獲得している
ろうあ者の「切り替え」
さらに考えると神谷昌明氏は、音声による「ことば」と視覚による「ことば」(=この場合は手話)を区別していないことが解る。
「ろう者は日本語対応手話から日本手話へ切り替えたため」と述べるろうあ者は、「音声によることば」を獲得しているのであるから「日本語対応手話」が出来るのであって、その手話表現を従来から話していた手話表現に替えたということにすぎないのである。
次元の違うコミュニケーションを
並列して手話を述べて比較
「音声によることば」に対する配列だけを学んできた「健聴者」からすれば、「配列」を替えられれば「手話が理解できなくなる」のではなく「話し合われていることが理解できなくなる」「手話による会話が解らなくなる」ということだろう。
「日本手話」を強調するあまり、「音声言語」と「視覚言語」という次元の違うコミュニケーションを混同して手話を述べられているのは、手話本来の持つコミュニケーション手段を理解されているとは考えにくい。