村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
以降は、村上中正氏の1971年試論をそのまま掲載する。
手話を忘れた聴覚害者にならない
○手話を忘れた聴覚障害者にならないように
このことについての討論は、なぜ要であったのかを若干考察したい。
タカナ文字の取得からはじまって
漢文に至る戦前京都のろう学校
戦前京都のろう学校では、手話による授業が行われていた。手話ですべてがすまされていたのではなく、カタカナ文字の取得からはじまって漢文に至る教育が主たるものだった。
カタカナ手話や漢語の手話が授業の導入として用いられてきたが、そのすべてをろう学校の生徒が日常的に使用したものではなかった。
使いにくい手話を
再構成する生徒たちの知恵と想像
使いにくい=手指、腕・身体に負担がかかり表現しにくいものは、教師が観ていないところで自分たちでアレンジして自分たちの手話としてコミュニケーションをはかっていた。
それらは、ろう学校生徒の中で伝承されていたが、その時々で変容した。
手話による教室と口話による教室
の対立の中で産まれたこと
ところが、ろう学校で手話による教室と口話による教室がつくられ生徒同士が隔絶された。同じ敷地内で接触しないような状況の中で、口話教室と手話教室の生徒の間で対立が生まれた。
教師の中でも口話教室の生徒は優秀であるとする考えがあり、口話教室の生徒もそのように信じて疑わなかった。
だが、教師たちが知らないところで生徒同士の対立が暴力へと発展した。
手話教室の生徒の方が、腕っ節が強かったので口話教室の生徒を押さえ込んだが、次第に聴覚障害として同じ課題を抱えていることが理解されるようになった。
「教師には従順」な姿を見せつづけながら
生み出し創造された手話の価値
その後、生徒たちは表面的には、口話教室の生徒も手話教室の生徒も「冷静さを保ち」「教師には従順」な姿を見せつづけた。
だが、生徒同士では多くの話し合いがされて、この手話のほうが自分たちの気持ちに合う、この手話は何かおかしいく思える、漢字の意味からすればこのような意味があるのでこの手話ではダメ、これがいいのではないか、と自由闊達な交流がされ次第に手話で話し合うことの基礎的流れが形成されてきた。
生徒から生徒へと伝習された手話
それを分断した戦争
教師たちの知らないところで、生徒から生徒へと伝習されていった。
戦争は、ろう学校の生徒集団の解体を意味し、手話の伝習も中断した。