村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論は、
密かに伝習されていた手話が
公然と伝習される手話へ
戦後、ろう学校に生徒が集まった時、断絶していた手話はろう学校の同窓会などを通じて「密かに伝習されていた手話」が「公然と伝習される手話」へとなった権利を認める立場から生徒同士が手話で会話することは容認されていた。また禁止することに対して少なくない教師が基本的人権の侵害であると反対した。
ろう学校中学部教師
手話が出来るのは当然
社会でも手話通訳として活躍
以上のろう学校と手話と生徒たちのことを村上中正氏ら主としてろう学校中学部の教師は充分知っていたし、理解していた。
そればかりか、伝承された手話を受けとめ自分たちもそれを取得し、手話が出来るのは当然とし、ろう学校以外の社会でも手話通訳として活躍していた。
伝承されてきた手話
ろう学校でも「風前灯火」となる事態
紆余曲折がありながらも伝承されてきた手話が、ろう学校でも「風前灯火」となる事態が急速に進行し、危機的状況が生じていたのである。
だから、○手話を忘れた聴覚障害者にならないように、ということが徹底討論の議題になったのである。従って、その意図するものには深い意味があった。
と書かれている。
戦前から権利侵害を強要と抵抗
基本的人権の考え一挙にひろまる
戦後のろう学校教育や生徒たち、手話と社会との関係が簡略に説明されているが、簡略であるが故に学ばなければならないことも多い。
手話伝習が中断させられ、その復興を、ろう学校に生徒が集まった時、ろう学校の同窓会などを通じて「公然と伝習される手話」へとなることを権利、基本的人権として考えたことへの移行は短期間に急発展したかもしれない。
この時期を戦前から権利侵害を強要され、それに抵抗し溜まり続けた鬱積した感情が一挙に爆発したともとれる。
戦後の民主主義だから得られたことだけとして考えることは出来ない。
手話を忘れた聴覚障害者にならないように
というろう学校中学部教職員の一致
拡がり続けた伝習されてきた手話が、危機を迎える。その危機を早く察知したのは、ろう学校の中学部の教師であったのではないか。
ろう学校以外の社会でも手話通訳として活躍していた教師たちだからこそ、察知出来たのでは。
それは、○手話を忘れた聴覚障害者にならないように、という中学部教職員の討論と一致に見出される。
このことは、あとあと重要なムーブメントになる。