手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話通訳制度のため踏み込んだことのない新しい峰へ 日本を揺るがしたILOVEパンフ運動を知って

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  日本の歴史上 国が初めて

     手話通訳について
 調査しそのあり方を考えた

 

4、ILOVEパンフ運動の展開

 

 パンフ作成にとりかかる1985年7月13日には、全日本ろうあ連盟と全国手話通訳問題研究会との協議で次のようにパンフを広める運動方向が考えられ、基本的合意文章が交わされた。

 

 それは、

① 「手話通訳制度調査検討報告書」は、全日本ろうあ連盟が厚生省からの委託を受け、それを検討した結果を厚生省に報告した、としてだけで捉えるのではなく、日本の歴史上 国が初めて(委託=法律行為または事実行為などをすることを他人に依頼すること。)手話通訳について調査し、そのあり方を考えたものとして捉え直した。

 そのため、「手話通訳制度調査検討報告書」は国民への「報告」であると捉える。

 

 単に国民への報告として国民の意見を聞くに留まらず、日本に住むすべての人々への報告であり、国民という範疇に留まって思考しないという視点に立つ。(日本国国籍を有する人々だけではない。)

 

   諸費用ゼロで

   手話通訳制度化合同推進本部を設置

 

② パンフ発行と同時に全日本ろうあ連盟、全国手話通訳問題研究会、両団体の内部学習資料の二つを発行する。

 

 (内部資料はその後、送られてきたハガキを集約したものとして意見集として作成し、日本に住む人々からの意見を直接それぞれの団体が学習し、手話通訳制度を深く検討するものとなった。)

 

③ 基金センターを設立し、全日本ろうあ連盟、全国手話通訳問題研究会で共同の事業を行う。

(後に、手話通訳制度化合同推進本部-以下合同本部-へと変化し、運動の前進により両団体による手話通訳研究所へと発展させることを目指すなどの方向であった。)

 

 1200万人か 3万人のひとびとに
 手話通訳制度の意見を聞くのか

 

 パンフは、当初1200万部(日本に住む人々の10%以上)と提案された。

 

 しかし、従来の全日本ろうあ連盟の署名でも上限が5万人であったため、目標に5万部発行と計画された。

 

 パンフ5万部という数そのものは、一回の発行ということでは、全国手話通訳問題研究会はもとより全日本ろうあ連盟にとっても未踏の目標であった。

 

 そのためパンフ作成は慎重にして3万部とされた。

 

 論議は尽くされたが、7月13日の会議では、100万部発行までの計画が話されたが、それに伴う運動が従来の両団体の取り組みを超越したものになるため30万部止まりの話し合いが精いっぱいなものであった。

 

  国民的理解を得るために
 最低でも120万人の人々の意見を聞く

 

 しかし、両団体の代表がその後、充分話し合った中で、「国民の意見を聞く-それは国民の最低1%の120万人に意見を聞かないと成立しない」「全日本ろうあ連盟も全国手話通訳問題研究会も従来の運動行動では、国民的理解を得る上で一定の限界にきており、それを脱皮するため120万人という目標は達成しなければならない目標でもある」などから、最終的に1985(昭和60)年9月から1987(昭和62)年3月まで120万人にパンフを普及するという今だ踏み込んだことのない新しい運動の峰に到達する方向が確認された。

 

  パンフなどの諸費用 ゼロからの挑戦

 

 だが、手話通訳制度化合同推進本部にはパンフなど作成する費用、その他の費用はゼロ。

 パンフの拡がりのみの収入を見越した自転車操業状態であった。

 

 論議の過程で初版3万部(作成費用が一番かかり費用は高額、だだし増刷以降は初版があるため費用は安価の一途を辿る。)の拡がりがなかった場合は、パンフ作成者が諸費用を全額自己負担することまで確認された悲壮な覚悟の第一歩であった。

 

  記念すべき日だった1985年8月23日。第18回全国手話通訳問題研究集会(北海道小樽市)で全国に先駆けて配布・販売したときの担当者は、喜びよりも諸費用の支払いへの思いだけが残った日だった。

 

 パンフ売上金すべてを抱えて、印刷会社に持って行き、残金を待って欲しい、と悲壮な思いで懇願するだけだった。

 

 手話通訳制度を実現するための情熱はあったが、それを裏付けるものがないままの新しい峰に登頂する不安。

 

 パンフ制作者全員が抱いていたことも忘れてはならない事実であった。