村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論で、
村上中正氏らの「要請文を受けて」、警察、検察、裁判所はどのような申し合わせをしたのか解らないが、同一人物への手話通訳依頼はなくなった。
と述べる。
さらに、
ろうあ者の基本的人権を守る手話通訳、ろうあ者の権利を守る手話通訳という基本が通訳団会議で自明のこととなっていく。
今でも思うのは、みんなの論議を基本方向でまとまるように提案した村上中正氏は、すごい人だと思った。
手話通訳者の集団の中で、自分の意見を押し通すことはなく、みんなの意見の中にある基本を把握して、それを提案して、みんなを気づかせて、まとまるようにするのが村上中正氏の通訳団会議の一貫した姿勢だったとのこと。
村上中正氏は、通訳団会議で多数決で決めることは、ある意見が多数だからとまとめることには反対の姿勢を貫き、多数意見でない意見も尊重して話すことを求め続ける人だった。
不条理を論理的に具体的に批判する
ウソ、偽り、誤魔化しに一歩も翻がなか
だだ、非常に厳しく批判する時があった。
形相を変えて怒り、相手の不条理を論理的に具体的に批判する時の村上中正氏には近寄りがたい「慄き」さえ感じた。
誤りにはとても寛容であったが、ウソ、偽り、誤魔化しに対しては、一歩も翻がなかった。
手話や手話通訳で必要以上に「もうけ」ようとする動き
手話や手話通訳で必要以上に「もうけ」ようとする動き、他の人が書いたことなのに無断で自分が書いた、とする人。
著作を誤魔化し自分や自分たちのものにすることなどには容赦ない批判が加えられた。それは、演劇活動で培われた創造を守り育てるという精神からきているのかも。
と書かれている。
手話通訳が公的保障された時の目安
としての手話通訳の謝礼の均等
手話通訳団会議では、各々が手話通訳に行った時の謝礼を明らかにして、手話通訳の謝礼の不均等がないように主張した。
これらは、いつの日にか、手話通訳が公的保障された時の目安になるとも言われた。
自主的で民主主義的で公開される手話通訳の基礎方向を主張されいた。
いま、このことで京都の手話通訳者を見た場合、村上中正氏の逆鱗に触れる人は多くいるだろう。
だから、過去やみみづく会手話通訳団で話し合われたことをひたすら隠そうとする、過去のことは知らない、わからない、として保身をはかる人がある。
たえず原点回帰がもとめられている。
と書かれている。