手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校・ろう学校長が手話や手話通訳を認めていた  手話や手話通訳の公的保障 1971年

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     村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 第1回全国手話通訳者会議及び手話講習会では教育関係者が手話通訳の分野で大きな役割をはたしていたことが解ると述べてきた。
 全国で初めて手話通訳者が集まる。ほとんどの人が顔見知りではない。さまざまな手話や手話通訳に対しての考えがある。
 この集会の司会者は、話を知らせるだけではない。苦労を重ね続けてきた手話通訳者の事を考えてその基礎に流れる考えを汲み取り、環流していかなければならないからだ。

 

手話通訳をするろう学校・民生関係者に公費負担を

 

 重大な役割を村上中正氏が熟している。その一例は、第2回全国手話通訳者会議(1971年)の記録で知る事が出来る。

 

 裁判、刑務所、鑑定人などさまざまな重要な場面でろう学校の教師が「通訳」したり「弁護」しているなどの問題が出されたなかで、村上中正氏は次のように投げかける。

 

 司会(注 村上中正氏)  この会議に出席することについて、私の場合、学校からの出張の形になることができたが、主に自已負担の人が多い。中には民生関係の仕事の人は、旅費を出してもらっている人もいる。(厚生省の方で出したので)

 

 これに対して厚生省から請われてろう学校の教師から厚生省の仕事(手話通訳も含む)をしていた貞広氏は、

 

貞広(厚生省) それに関しては、行政的にいうと、県の関係者において、そういう人があったら、よろしく指導してく:れという通知を出している。
 (自分には関係ないの声あり)

と答えている。

 

ろう学校教師が警察、検察、裁判の場において公的要請に基づき手話通訳や意見を述べていた事実

 

 第二回全国手話通訳者会議の記録は、ほとんど注視されていないが大きく、しばしば見逃されているが、1971年当時でも三つの重要なことが解る。

 

 それは、評価は別にしてろう学校教師が警察、検察、裁判の場において公的要請に基づき手話通訳や意見を述べていたことである。

 公的機関から教育公務員が公正・中立な立場であるとして手話通訳や意見の要請があり、ろう学校、ろう学校・校長がそれを承認していたことである。1971年という時代。また参加者が全国各都道府県から参加したと言えないが、それでも公的機関相互において公的に手話通訳が承認されていた。これは、手話通訳が公的に認められていたという証ではないのか。

 

厚生省が手話通訳関係者の公費出張を要請していた事実

 

 さらに厚生省が、手話通訳関係者が全国手話通訳者会議に参加出来るように通知を出しているということがある。通知は出しても旅費支給が保障されていない事への不満は推定できるが。

 

ろう学校・教育委員会が手話や手話通訳を認めていた事実

 

 さらにさらに村上中正氏がろう学校から出張で参加していることを明らかにしていることを考えれば、ろう学校、ろう学校長が手話や手話通訳を認めていたことは明白になる。

 村上中正氏がたまたま認められたとは考えられない。なぜなら、第1回、第二回の全国手話通訳者会議には村上中正氏の同僚たちが複数出張で参加していたからである。

 

 宿泊をともなう出張は当時は安価でなかったはずである。それを複数人認めることは、かなり高額な出張費が支払われたことになる。当時のことを調べると、出張等の予算配分は、教育委員会が行ない、主張承認は校長が行ない、教育委員会に諸報告をあげることとなっている。予算の支出は、教育委員会に財政権限は一切なく都道府県となっている。

 

 以上のことを勘案すると、1971年当時にはすでに手話や手話通訳が公的保障として対処されていたことになる。

 さらにすべてではないものの、ろう学校において手話や手話通訳は否定されることはなく公的に認められていたことが明白となるのである。

 村上中正氏は、以上のことを噛みしめて
「私の場合、学校からの出張の形になることができたが、主に自已負担の人が多い。中には民生関係の仕事の人は、旅費を出してもらっている人もいる。」
と司会進行したことが理解出来る。