communion of mind with mind
空間と時空の組み合わさった手話を文字やはなしことばに置き換えることのキーは、手話の玄理にある。
このことを検証してみたい。
それ以前に、はなしを少し遡ることとする。
前述した、
山本正さんは、みんなの手話を見ていて「同じ」の手話が多いことを見ていたのだろうか、漠然とだったのだろうか、「同じ」の手話を表現することが出来るようになったようである。
ろうあ協会の参加者は、「同じ」の手話が出来ると手話がどんどん覚えられて、この手話は何を表しているのか分かるようになる。
もっと覚えると今度は「ちがう」の手話を知るようになると私たちとの話は充分出来るようになる。
もっと覚えると今度は「ちがう」の手話を知るようになると私たちとの話は充分出来るようになる、の理由をその後聞いてみた。
対の手話の同じ、は同類のことをまとめてひろがりを見せるが、これでは、異類を取り込んでひゅげん出来ないと説明された。
例えば、服としても、洋服、和服がある手話の着物は服になるが手話表現では普段使われる洋服=服=着ると、手話の動作が異なる、これを理解する、表現するには、手話「同じ・一緒・一致」と手話「違う」の組合せによって「同じなかにも違うものがある」とする理解が深まると説明された。
さらにろうあ協会の役員の人は、「同じ」と「違う」と「なぜ」これが「手話の三種の神器」であるとも説明された。
自分たちは、ろう学校に通うなかで、生徒同士や先生から手話を自然に学んできて、それがあたりまえのように思っていた。
でも、学校に行けなかった仲間とともに手話を覚える過程の中で、同じ・ちがう・なぜ(理由)が基本的に使えたなら手話の獲得ははてしなく広がる。
自分たちの経験から言える「手話の三種の神器」であるが、思いつきでも経験だけのものではなく手話を使ってコミュニケーションする真理があると思う。
ぜひ、そのことの追求・検討・研究をしてほしい、と言われた。
経験から言える「手話の三種の神器」であるが、思いつきでも経験だけのものではなく手話を使ってコミュニケーションする真理、託された課題を持ってその後さまざま手話のことで書かれたことを考え続けた。