communion of mind with mind
手話検定試験などが推し進められて、ろうあ者の人々が創り上げてきた手話について人間性が省かれてしまって、まるで機械化された手話が手話とされていると思われることがあまりにも多い。
残念なことは、手話検定試験などが推し進められて「作為的な手話」が正しく、それ以前の手話は、古い手話、昔の手話、方言の手話、意味のない手話などとされる傾向は次第に強められてきた。
そればかりか、それまで綿々と日常のコミュニケーションで使われた手話の記録が少ないためあるひとつの手話を「昔の手話」とされ、なんの検証もなく引用されている。
その中で、深刻なのは手話のもっている本来の人間同士のコミニケーションが、次第に失われていっていることである。
また、聞こえる人間が手話を学び、手話通訳をするときの人間的基礎条件が「瓦解」されているようにも思える。
手を動かすことだけが手話ではないことをもっと多くの人々に知ってもらいたい。手話を覚えた切っ掛けとその後の感動。
極限まで追い詰められた人間が人間性を取り戻すための表現手段としての手話に、いいようのない人間的ぬくもりに抱かれたことから手話を学びはじめた人びとが失望のなかで手話学習から去るという事がないようにしなければならないのではないか。