手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

「受け身の手話」ではなく 「手話」はあなたのものでもある

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                                     ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

 「自己表現」することが「ひとつ」しかない

 

 いくつも表す手話なんて、おかしい、とまで言いましたね。

 

 でも、そういうあなたの中に「自己表現」することが「ひとつ」しかないという「受け身のコミュニケーション」を見いだしていたのです。

 

  思い出してください。

 

 ナニナニしました。ナニナニでした。

  と繰り返していたあなた自身を。

 

  「悲しい」ということば以外に

   「悲しい」ことを表現

 

 いまでこそ、「あ、そうそう」という話し方をするあなたでしたが、当時は「あああ そうでした。」と「です」「ます」調ではなすことが身体の芯まで染み通っていたあなたは居ませんでしたか。

 

 「悲しい」「うれしい」「苦しい」と言えても、「悲しい」ということば以外に「悲しい」ことを表現してはなせる力はあったでしょうか。

 

 手話による 

  「人間性回復のコミュニケーション」

 

 ナニナニして、ナニナニして、ナニナニして、悲しかったです。

 とはなしていましたが、順番に言ってから、悲しい、と言わなければならないということに「拘りさせられている」あなた。

 

 手話で「受け身のコミュニケーション」から「人間性回復のコミュニケーション」を身につけるようにとの想いでした。

 

  瞳の輝きと「私の気持ちにピッタリ」

 

 散々迷ったあげく、「あ、この手話ですると私の気持ちとピッタリ」と言ったあなた。瞳が輝いていました。

 

 眼は、限りない表現者でもあります。

 

 それから、「どうもこのこれは私の気持ちではない」と、あなたは「言い表すこと」「手話で表すこと」への「戸惑い」を持ち、「戸惑い」の最初はとても時間がかかったけれど、どんどんと「戸惑い」の時間は短くなっていきましたね。

 

  「手話」はあなたのものでもある

 

 「受け身の手話」ではなく、「手話」はあなたのものでもあることも知って欲しかったのです。

 

 今なら、分かってくれるのではないかと思いますが。

 

 

 

対等平等の関係のコミュニケーションから 聴覚障害者の基本的人権

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                                   ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  基本的人権の感覚が脱落した
    聴覚障害者のコミュニケーション

 

 私は聴覚障害者のコミュニケーション問題を論じるときに基本的人権の感覚が脱落していることに気づくことがしばしばあります。

 

 例えば、聴覚障害者のコミュニケーション問題を論じられるときに

 健聴者→聴覚障害

というケースは多くあっても

 聴覚障害者→健聴者

というケースを論じるのは少ないことにもあると思います。

 

   健聴者→聴覚障害者  聴覚障害者→健聴者  聴覚障害者⇔健聴者

 

 これを論じてこそ真の聴覚障害者とのコミュニケーションが明らかになると思っています。

 

 そうでないと、聴覚障害者はいっまでたってもコミュニケーションの受け身でしかないようにさせられます。

 

  自分の自分たちの手話を

       表現しないという哀しい事態

 

 手話の「発信」する側の「言いなり」(表現は適切ではないかも知れませんが、あえて書きます。)になってしまい、「弱い立場に居るろうあ者」は、「遠慮」して自分の自分たちの手話を表現しないという哀しい事態が生じるのではないかと。

 

  聴覚障害者の基本的人権が保障は健聴者と
 対等平等の関係のコミュニケーションから

 

 聴覚障害者が主体的に自分の意見が言え、健聴者と対等平等の関係で討論できるコミュニケーションでないと聴覚障害者の基本的人権が保障されたとは言えません。

 

 小さいときからあまりにも「受け身のコミュニケーション」に慣れさせられてしまってきた聴覚障害者が、「人間性回復のコミュニケーション」をどう獲得するのか、それは基本的人権を守る基本だと思っています。

 

  手話テキストをつくらない手話学習

 

 あなたが手話を知らなくて、手話を教えて欲しいと言った時に私は手話テキストをつくることが出来ましたが、つくって渡すようなことは絶対しないと思いました。

 

  まず、あなたが言いたいこと、知りたいこと、困っていること、分からないことなどなどをはなして、それを手話で表すとどのような「表出」になるのか、ということからはじめました。

 

  ひとつだけの手話にして欲しい

 

 覚えていますか。

 

 その時、手話で表現する「ひとつ」の方法ではなく、いくつものパターンを教えましたが。

 

 あなたは、ひとつだけの手話にして欲しいと言いつづけました。

 

手話が「消されて」しまう

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                                   ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  手話で会話をしている人たちの手話を
   すべて調査・記録・保存・研究・公開

 

  日本では、それらのことがされないまま主観的に経験的に手話を断定されて、と書いたのは、手話で会話をしている人たちの手話をすべて調査・記録・保存・研究・公開されていないからです。

 

 ある国では、手話を徹底的に調査・記録・保存・研究しています。

 

 だが、それは、とての手間と膨大な費用を必要とするからという理由で日本では投げ捨て去られています。

 

  手話は「消されて」しまうのではないか

 

 でも、私は、今からでも遅くない、調査・記録・保存・研究・公開をするべきだと思っています。

 

 公開と書いたのは、一部の人が手話を「独占」したり「勝手気ままな解釈」をしたり手話を「技能習得」としてランク付けしたりしない、などなど日本にする人びとに公開し、手話をみんなで共有するためです。

 

 そうでないと手話は「消されて」しまうのではないかと心底心配しています。

 

  手話で主として会話する人びとの
    基本的人権を否定する重大な問題

 

 手話をコミュニケーション手段として認めない「証拠」が、手話の全面調査・記録・保存・研究・公開に表れていると言えば言い過ぎでしょうか。

 

 いいえ、私は、手話の全面調査・記録・保存・研究・公開をしないところに手話否定、手話で主として会話する人びとの基本的人権を否定する重大な問題があると思っています。

 

 残念なことですが、これらを克服してゆくのはあなたたちの時代であると思います。

 

 あなたの聞きたいことに、答えていないと思いますがまた意見を寄せて下さい。

 

 あなたの友人から少し違った質問があり、それに対して書いた手紙のコピ-を同封しておきますので合わせて読んでみて下さい。

 

 

手話 はなしことば それぞれの良さを生かして「共有」することこそ

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                                   ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  はなしことばにも手話にも一長一短がある

 

 手話を見きわめてゆけば、はなし言葉にある無駄なことがあったりして、手話で表現することを困難にしているとさえ感じられるときがあります。

 

 日本語のはなしことば(音声言語)は、合理的で理論的にすべて解明できる言語では必ずしもありません。

 

 はなしことばにも一長一短がある、手話にも一長一短がある。

 

 でも、だからといって否定されるものではないのです。

 

 それぞれの良さを生かして「共有」することこそ人間的コミュニケーションなのです。

 

 あなたの手紙の新年会の様子から学びました。

 

  結果的に「人間の思考」を相手に伝える

 

 ことばは、人間と人間の意志を「伝達する手段」であって、人間はそのことばを媒介として「思考」してゆきます。

 

 この場合、

 

 ①人間→手話←人間

 

 ②人間→音声言語←人間

 

という手段で結果的に「人間の思考」を相手に伝えてゆくことが出来るものなのです。

 

   手話とはなしことばを

    同じレベルで論じるのは無理がある

 

 ①人間→手話→人間(眼→大脳視覚野→大脳言語野→思考「理解・コミュニケーションの成立」)

 

 ②人間→音声言語←人間(耳→大脳聴覚野→大脳言語野→思考「理解・コミュニケーションの成立)

 

と言う過程で伝わってゆきます。(大脳のメカニズムについては、さまざまな意見がありますが、簡単に説明ます。)

 

 すなわち異なった人間のメカニズムを使ってコミュニケーションをした場合、手話とはなしことばを同じレベルで論じるのは無理があるのです。

 

 点字と墨字(漢字ひらがななど)を評価する場合も同じでしょう。

 

異なったものを同一レベルで
 いいか わるいか どれがいいのか

 

 はなしことばと手話を区別をするということは、どちらかか、一方だけを否定することではないのです。

 

 各々の特徴を知って、それぞれを共有してコミュニケーションを成立させて、お互い思考していくことが大切だと思います。

 

 異なったものを同一レベルで、いいか、わるいか、どれがいいのか、などと言うのは最初から成立していないはなしでしょう。

 

  もとめられる 手話の科学的解明

 

 手話は、視覚的コミュニケーション手段です。

 

 視覚的な点で優位性を持っているのですから、その点をもっと科学的に解明してゆけば音声言語に匹敵する聴覚障害者のコミュニケーション手段として成立すると思います。

 

 でも、日本では、それらのことがされないまま主観的に経験的に手話を断定されてしまっています。

 

 

 

 

基本に迫って 手話学習  コミュニケーションの意味を

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                                   ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

 速効力のあるコミュニケーション手段となる、と書きましたがコミュニケーション(communication)の語源は、ラテン語のコミュニス(communis)からとされています。

 

 「共通したもの」「あるいは共有物」の意味があるとされていますが、コミュニケーションの「基本」を理解するためにはとても大切な意味があると思います。

 

  大国語辞典や大漢和辞典で調べる手話学習

 

  手話を学ぶ時、わからなくなったら大国語辞典や大漢和辞典で調べることが多くありました。

 

 辞書は知識の宝庫です。

 

 なぜこのような手話をするのか、わからなかった時にいつも辞書を調べたりして解るとろうあ者の人にそれを知らせました。

 

 手話をある意味伝習的に使っていたろうあ者は、飛び上がって喜んでくれた時が多くあります。

 

 先輩たちは、ここまで考えて手話をしていたのかと、このややこしい漢字の特徴を捉えて手話にする。

 

 意味も含めて。すごい知識と知恵を先輩たちは持っていたんだ、とよく言われました。


   一方的な伝達と異なる共有

 

 コミュニケーションは、よく「伝達」等と言われます。

 

 コミュニケーションとは、ただ一方的に伝えただけ「伝達」では成り立たないのです。

 

 伝えた相手が理解し、お互いにその意味や内容等をしっかり「共有(共通の理解レベル)」して初めて成立するものなのです。

 

  理解 共有できるまで根気よく

 

 人は多くの場合、自分の話している言葉や話は相手も同じように理解してくれていると思っています。

 

 会社では、よく「部下や社員等の理解レベルが低い」などの嘆きや不満を経営者や管理者から聞きます。
 
 しかし、「部下や社員等」の理解度を嘆く前に、発している・伝えている言葉が、丁寧にわかりやすく、理解、共有できるまで根気よく伝えられているかを経営者、管理者自身が振り返ってみることも大切なことなのです。


 あなたの手紙の新年会の様子。

 あなたの友人は必死になってすべて指文字で新年会の話を伝え、あなたも目を皿のようにしてそれを見ていた。

 

 そのことは、「伝達」と言うより、共有でしょう。

 

 指文字で伝え合う「共有」が新年会の場であったのです。

 

 それを指文字だからとか、時間がかかりすぎるとか嘲笑することはあってはならないと思います。

 

 ひとつひとつの指文字が伝えられ、あなたが頷いたり、笑ったり‥‥‥そこには一方向でない共有された世界が拡がっていたのです。

 

 

手話 の特性を生かした 速効力 のある コミュニケーション

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                                   ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  手紙ありがとう。住民説明会の手話通訳と役所の行動について、どんどんと多くの人が賛同して輪が広まっている報告。ありがとう。

 

 ろうあ協会の人たちも今までにない多くの人と知り合いになり、あちらこちらに出かけたり、呼ばれたりしていることとてもうれしく思いました。

 

   手話の表現も歴史的経緯がある

 

さて、手話と地名の問題についてですが。

 

 これは、簡単なようで難しいのです。歴史的な中で形成されてきた地名。手話の表現も歴史的経緯があり、どれが正しいとか、間違いとか言えないことが多いからです。

 

 手話

  それぞれの時代のろうあ者の生活の直結する

 

 地名の手話を学ぶことは、それぞれの時代のろうあ者の生活の直結するのではないかと思っています。

 いままで、さまざまな地域でその地域名の手話を記録してきました。

 

 非常によく似ていろ手話なのに、少し違うことを採り入れて、自分たちの地域を表現する素晴らしさを知って手話の微妙な表現と多様性に感動しています。

 でも、なかなか、うまく説明出来ません。

 

   ろうあ者の人びとの仕事と手話

 

 あなたが今すんでいるところは、手話の「帯」で表現しますね。

 

 ところが、この帯で地名を表現するところは、各地域にあります。

 

 「オ・ビ」という音声で表現する場合もありますが、地域産業として帯を織っていた、ろうあ者の人びともその仕事に就いていた歴史から「オ・ビ」の呼び名でないのに「帯」の手話で地名を現す処もあります。

 

 帯を織る、機織り、などの仕事はどんどんとなくなっていっていますが。

 もう少しすれば、ほとんど無くなるのではないかと嘆いています。

 

 着物の帯となとと幅が広いので 帯は帯でも

 

 帯は、お腹回りにくるりと巻いて手話「帯」とする場合がありますが、着物の帯となとと幅が広いので指文字の「レ」を内むけにして胸の下あたりから回すこともあります。

 

 今はほとんど表現されませんが、高級帯の西陣から「西陣」という地名を少しお腹から離して方向の西、「帯(状)に西」とする人もいました。

 

 地名と手話については、大切にして行きたいと思います。

 

 速効に分かる手話

 

 さて、手話の特徴で長い地名も一度動作ですむのです。

 

帯の動作と音声の速さをしてみて下さい。どちらが速いですか?

 

どちらも速くも出来るし遅くも出来ますね。

 

でも、帯は一目瞭然なので聴覚障害を持つ人には速効に分かるのです。

 

  手話は会話のひとつひとつの連鎖で理解

 

 同じ手話だったら「間違う」とよく言う人がいます。

 

 でも、手話は会話のひとつひとつで理解されるのではなく、その前後の連鎖で理解されます。

 

 だから手話を見て理解すれば、帯か、地名か、区別出来るのです。

 

 そうでなかった場合は、問い直した問い直したらいいのです。

 

 あなたの得意な、

「ちょっと待って」

で、相手に説明をもとめて地名か、帯か、を聞けばいいのです。

 

 話がどんどん進めば、「ちょっと待って」と言わなくても自然と解ってくるものです。

 

 手話の特性を生かせば
   伝達する速効力のあるコミュニケーション手段

 

 一例ですが、手話表現は視覚的理解をすすめるものであって、音声言語のように音理解をすすめるだけのものではないのです。
 

 むしろ、漢字を見て意味理解をする事、表意を把握することにに近いように思われます。

 

 指文字と比べて、手話は手話の特性を生かせば相手に伝えたいことを伝達する速効力のあるコミュニケーション手段となるのです。

 

 

気持ちが「ひとつ」になった記念すべき日に

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                                   ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿
                                                  道路拡張にともなう住民説明会 ③

 

   住民説明会に参加した人たちと
気持ちが「ひとつ」になった記念すべき日

 

 書き付けを振りかざしたろうあ協会の人たちに役所の人がやって来て取り押さえようとした。

 

 それを見た参加者の人が逆に役所の人を制止して会場は騒然。

 

 騒然となったことだけを問題にするのではなく、住民説明会に参加した人たちとろうあ協会の人たちが気持ちが「ひとつ」になった記念すべき日だったのではないでしょうか。

 

 通訳されないなら別の方法で意思表示

 

 力で意見をねじ伏せようとする。

 

 でもそれに対して自分たちの意志を止めない。明るみにする。ろうあ協会の人たちの意見を知って住民の中から連帯が拡がる。

 

 自分たちの意志を表に出すことの重要性。

 

 手話通訳にすべてを依存しない。

 

 手話通訳の人の立場と手話通訳とは何か、をすぐ見抜いて、別の方法で自分たちの意見を表出する。

 

 この知恵とエネルギーを共に大切にしてください。

 

  参加した人の怒り

   通訳することに干渉していません

 

 あなたがろうあ協会の人びとと一緒に役所に行って、手話を手話通訳されなかったこと、必死に書いた書き付けを取り押さえ、取りあげようとしたことは問題だと交渉したことも非常に大切なことだったと思います。

 

 「会場が騒然」となったことには、訳があるのだから。

 

 でも役所の答えは、ひどいですね。

 「手話通訳はろうあ者の人に通訳してもらうので、通訳することに干渉していません」

 「書き付けを取りあげようとしていません。なにが書かれているのか係が見に行っただけです。」

 

 交渉に参加した人が怒ったのも当然です。

 

  このような「言い回し?」「責任逃れのウソ」は、よくあることなんです。残念ながら。

 

 でもそれに負けないでがんばろうと誓い合った人びとに未来が見えました。くやしいだろうけれど。