手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校教育の「九歳の壁」に対峙「豊かな無限の発達」

 村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 村上中正氏の1971年試論では、

 以下村上中正氏の「試論」を掘り下げるために田中昌人氏が提起したことと関連付けて考察したい。
 1967年、村上中正氏らが中心になって開いた集会で田中昌人氏は、次のようなことを話している。

 

  人間には横への発達がある

 

 「発達を上の方向だけみていると、絶望にいきわたりますが。そうじゃなくて獲得している可逆操作特性の交換性を高めていく方向があるんだ。
 これを京都や滋賀の人たちは、横への発達ということばでいおうとしております。
 上への発達だけではなく、人間には横への発達がある。」

 

ろう教育しか役に立たないということではなく
 他の人と置き換えのできない豊かな個性が育っていく

 

 「私たちだって、ろう学校で言語教育をしていて、ろう児がいなくなったら、飯の食い上げで首ってなるんでは、操作特性の交換が貧困です。
 ろう学校で、本当にほんまものとしてできているんであったら、『精神薄弱』なら『精神薄弱』のところで、同じ原則に立って別の方法を生みだしていけるんですね。
 操作特性の交換性を高めてその人は『ろう教育しか役に立たない』ということではなくして、他の人と置き換えのできない、10種類なら10種類の創造性があるとすればその人の豊かな個性が育っていくわけですね。

 

  横への発達は無限にある

 

 横の発達ということがあるからこそ、『他の人』とおき換えのできない人間になっていくんです。」
 「発達には横の発達があるんだ。可逆操作特性が高次化するんではなく、すべての人が『縺れ』がある。『縺れ』があるけれど獲得している操作特性の交換を高めていく方向で豊かな無限の発達があるんです。

 自己実現は無限であるという意味で、重症児でも私たちの場合でも共通的価値的にひとしいわけなんです。」

 

  縦の発達と横への発達、横への発達は無限であるとする試みを村上中正氏は、意図しながらも未整理なままで提起したのであろうか。と書かれている。

 

 人間発達の評価は別れるが、縦方向への発達、積み上げの発達に対して「発達は無限である」と捉えながら「豊かな無限の発達」を思考した。

 

 この時、村上中正氏の心を捉えていたのは「九歳の壁」という基本的問題への批判的創造ではなかっただろうか。

 

 言葉を多く教えることの可否で「九歳の壁」が決まるとするろう教育の口話一辺倒への論理的批判の構築があったのではなかろうか。

 

 

 

特殊教育・身体障害児教育・心身障害児教育から 障害児教育・障害者教育への基本的考えの変容

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

   人間としての聴覚障害者を見ない
 数値で判断することは基本的人権を否定すること

 

 村上中正氏の1971年試論では、

 聴力で聴覚障害者を評価したり、断定したりする傾向。それを人間評価まで広げる傾向がある。人間としての聴覚障害者を見ないで、数値で判断することは彼の述べる基本的人権を否定することに繫がる。

 彼は、これらからの脱却を教育から考えれば「固定された生徒集団」でない方途が求められるとしている。

 

人間の全般的な発達と
 固定集団の関係の説明は充分

 

 村上中正氏は、聴覚保障は発達のちがいや、失官の時期によってその保障の対策は異なってくる。
 だから固定的集団をいつまでも置き続けることは、人間の全般的な発達を保障する道とはならないと述べているが、その固定集団と人間の全般的な発達の関係の説明は充分されていない。

 

  彼は、

 

「徐々に固定の環をゆるめて自らがさまざまな集団のつくり手となっていくことのほうに発展させていかねばならない。」


「難聴学級の中でも発達の道すじを正しくとらえてすすめることが必要である。」

 

とする。そして、

 

・学校を終える段階では、他の集団ー健聴者の学級との結びつきや交流を強めていきながら、一般的には健聴者集団の中にあって、また別個の障害者集団をっくりあげていく力量をもたせていくことを目途にすぺきであり、そしてなお残された個々の課題にたいする手だてとしての条件整備が保障されねばならない。としているが、この部分の固定集団と他の集団との関係性は理解出来ないところである。

 あえて、彼が「試行」のための考察として積極的評価をしてみても未整理な集団形成と集団の問題に行き着く。

 

  特殊教育・身体障害児教育・心身障害児教育から 障害児教育・障害者教育へ

 

 1950年中半から1960年代中半にかけて特殊障害児学校の教師たちの中で現状を改革し教育実践の内実を図ろうとする動きが次第に活発化している。

 

 特殊教育、身体障害児教育、心身障害児教育などと名称の摸索と並行して教育内容の精選が行なわれている。

 この時期を通して障害児教育、障害者教育という概念と内実が形成された。
 その中心に村上中正氏も居た。

 彼と主として特殊学校の教師たちが提唱したのが「発達保障」であり「全面発達をめざす教育」であった。

 

村上中正氏、田中昌人氏と
 障害者の発達と全面発達の方向を論議

 

 「発達保障」を理論的にも実践的に統合し、「新しい発展方向」を提起した中心的人物が田中昌人氏である。
 村上中正氏は、田中昌人氏と障害者の発達と全面発達の方途について果てしない議論をしている。

 

  村上中正氏「発達理論」形成に多くの貢献

 

 田中昌人氏の「発達理論」は当初、盲学校やろう学校の教師たちの関わりの中で形成されていったことは現在ではほとんど知られていない。
 そればかりか「発達理論」形成に村上中正氏が多くの貢献をしていたことは銘記しておく必要があるだろう。と書かれている。

 

  盲学校やろう学校の教師たち
   の中で形成され「発達理論」

 

  田中昌人氏の「発達理論」は当初、盲学校やろう学校の教師たちの関わりの中で形成されていったことは現在ではほとんど知られていない、との記述。

 

 調べてみると確かにそのようである。一部では、発達保障や発達保障理論を田中昌人氏が独自に創造させたようなことが主張されている。

 

 そればかりかその論理を形成させたのがろう学校の教師や盲学校の教師であった記述はほとんどなく、別建てで論じられているのは不可思議である。

  田中昌人氏の文献を読むにつれそのことへの疑問が膨らむ。

 

 

聴くことへのあきらめ ではなく 可能性の追求を保障する教育

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 村上中正氏の1971年試論では、

 とくに、「聴くことの可能性の追求保障」を以下の「試論」で具体的に説明もしている。それだけ、この「聴くことの可能性の追求保障」は重視されていたのだと思う。

 

 近年、このような表現や意味合いがあまり取りあげられない。
 しかし、国際障害者年から障害者の権利宣言までの過程を踏まえると、障害者の要求に答えることはもちろん断絶無き幸福追求権が綿々と織り込まれている。

 

 「聴くことへの諦め」ではなく、可能性の追求を保障することは、村上中正氏の聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障の重要な基礎と考えていいだろう。

 

 科学技術の発達による機器の進歩

聴覚障害の程度と内容には複雑な差違

 

 さらに、村上中正氏は、現在の難聴学級のあり方と課題を明らかにする。以下概要をあげる。

 

・科学技術の発達による機器の進歩は、聴覚障害者の聴覚保障の可能性を大きく開いた。
 ほとんどの聴覚障害者が、現時点で「聴く」ことのできる対象として聴覚機能訓練による一定の効果が期待出来る。

 

・しかし、聴覚障害の程度と内容には複雑な差違があり、中でも難聴学級の対象は「耳がらのことばの聞きとりにあるある程度依存出来る可能性を持つもの」とされているが、その可能性の見極めは決してたやすいものではない。

 

  「平均聴力」は、一応の目やすとはなっても
 聴力損失の正しい姿をとらえるものではない

 

・いま一般的にいわれている「平均聴力」ー平均聴損率は、一応の目やすとはなっても聴力損失の正しい姿をとらえるものではない。

 

 オーディオグラムーと、そこから考えられる音声のきここえや歪みの状態まで分析していかねばならないものである。そしてまた、大脳での記憶や作用とも結びついた状況の把握として、語音聴力検査等の面からの測定も必要になってくる。

 

・そしてその値は失官時期や、訓練の積み重ねなどともかかわって、オーディオグラムとの相関を必ずしももたないものである。だからこそ早い時期からの集中的な訓練と、全般的な発達を支えるための特定の集団ー組織としての学校ないしは学級が必要になってくる。

 

  断片的な知識で判断することを排除
  科学技術の発達と人間の発達を考えた場合

 

・聴覚保障の面からの個々の発達のちがいや、失官の時期によってその保障の対策は異なってくる。

 

 だからといって、周囲からの支えとしての意味をもつ固定的集団をいつまでも置き続けることは、人間の全般的な発達を保障する道とはならない。

 

  村上中正氏は、科学技術の発達による機器の進歩によって聴覚障害者の聴覚保障の可能性が拓いて来ていることを強調する。
 
 グラハム・ベル聴覚障害児教育や聴覚障害者のために科学技術を駆使して発明をした時代以降から聴覚機器は例えようもない飛躍を遂げている。

 

 このことを「聴覚障害者の聴覚保障の可能性を大きく開いた」として「聴くことの可能性の追求保障」に位置づけていると考えられる。

 だが、科学技術の発達と人間の発達との関係で考えた時に断片的な知識で判断することを排除しようとしている。

 

 それは、「聴覚障害の程度と内容には複雑な差違があり」「ことばの聞きとりにあるある程度依存出来る可能性を」見極めるのは「たやすい」ことでないとしている。

 

 これらのことは、今日でもしばしば起こる問題である。と書かれている。

 

 

「聞く」と「聴く」の手話は異なった手話の表現法  ききたい、きこうとする、ことへの保障という意味で「聴」という漢字で表現

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 村上中正氏の1971年試論では、
  京都府教育委員会の特別具申制度による聴覚障害の高校入学の制度的道は切り開かれたが、難聴学級設置で無条件で高校に入学出来る制度が出来なかったことで父母のねがいは果たされなかったということになる。以上のことは、あくまでも概略的解説に留めた。

 

 詳細なことについては膨大な解説を必要とする。だがしかし、以上の事を全面的に研究するなどは行われていないように思える。

 

聴覚障害者は本来

人間として「聴く」権利・聴くことへの

可能性の追究を保障される権利をもっている

 

  1971年、村上中正氏は、聴覚障害者教育の展望として

聴覚障害者は本来、人間として「聴く」権利・聴くことへの可能性の追究を保障される権利をもっている。」

 「基本的人権に根ざした思想を確立して、『障害やそれに基づく困難を克服させ、社会によりよく適応『させる思想に対していかねばならない。」

 

 「聴覚障害幼児の教育と指導が、一つの面では聴覚保障の立場からなされることによって、子どもらの進路は、小学校、難聴学級、聾学校など、それぞれのもつ任務に合った方向で保障されるであろう。そして、かれらが持たされている障害の補償についての可能性を無限に追求することの責任を、行政がもたなければならない。」としている。

 

  基本的人権から
「聴く権利」「聴くことの可能性の追求保障」を論じ

 

 基本的人権から「聴く権利」「聴くことの可能性の追求保障」を論じようとしている。

 

 「聞く権利」としないで「聴く権利」と書いていることから、彼は漠然ときくことよりも、ききたい、きこうとする、ことへの保障という意味で「聴」という漢字で表現しているのだろう。

 

  「聞く」と「聴く」の手話は異なった手話の表現法
   ききたい、きこうとする、ことへの保障

 という意味で「聴」という漢字で表現

 

 彼が手話通訳をしていた時期は、「聞く」と「聴く」の手話は異なった手話の表現法であると説明し、聞くのもともとの漢字と意味を説明していることなどから考えて意識的に表現されたと考えられる。と書かれている。

 

 

 

聴力検査だけで判断せず聴覚障害児の生活や生活環境を考慮 の画期的基準

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

 村上中正氏の1971年試論では、
 知恵を絞ったのであろう京都府教育委員会は、高校入学選抜制度にある「その他事項」
着目したようである。

 「その他事項」とは、「特別具申制度」とされ、いわゆる引っ越しする場合などなどやむを得ない事情を考慮する制度である。

 例えば、他府県から転居し、4月には京都府在住する予定の生徒や京都府下から京都市内への転居などなどやむを得ぬ事情があり4月以降に所在する公立高校への合否を決めることが出来るなどの「制度」である。

 

  公立高校入学試験に合格
   聴覚障害の生徒を受け入れる高校で合格

 

 京都府教育委員会は、この特別具申を聴覚障害であるとする証明で認め、高校入学試験に合格すれば、小学区制の地元の高校ではなく聴覚障害の生徒を受け入れる高校で合格とするように特別具申制度を活用したのである。

 

 聴覚障害であるとする証明は、身体障害者手帳を有するものや高度難聴でないと認めないというものではなく、当時として比較的「軽度な聴覚障害」とされたものも認めた。

 

  卒業数十年して障害者年金申請証明に特別具申制度
   障害年金受給が可能

 

 このことで、卒業数十年して障害者年金申請に関わる証明にこの特別具申制度が生かされ障害年金受給が可能になった人もいたとの記録がある。

 

 耳鼻科医の証明は、聴覚障害児の生活や生活環境を考慮されたもので、聴力検査の結果だけで判断することは極力排除されていた。

 

聴覚障害児の生活や生活環境を考慮

 

 教育の役割を充分理解した耳鼻科医が多かったこともあるが、耳鼻科医の組織が聴覚障害児の教育に協力したこともある。と書かれている。

 

 耳鼻科医の協力のもとに新たなる教育制度が考えられる。
 
 しかも入学基準に『聴覚障害であるとする証明は、身体障害者手帳を有するものや高度難聴でないと認めないというものではなく、当時として比較的「軽度な聴覚障害」とされた』と書かれていることを考えれば、聴力の状況だけで区別していた当時の聴覚障害児教育や教育分野では画期的な判断であったとも考えられる。

 

 杓子定規な解釈ではなく「聴覚障害児の生活や生活環境を考慮された」耳鼻科医の証明の添付だけでいいとする考えは、今日でも克服されていない問題を切り込んでいる。

 

 

 

高等学校における障害者教育について 義務教育でないとして財政措置を行なわない文部省・文部科学省への実践的回答

 

     村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

特殊学級は義務教育段階まで国庫補助
 高校は義務教育終了と見なされ一切の補助制度ナシ

 

 村上中正氏の1971年試論では、

 京都府教育委員会が、高校に難聴学級をつくらないで、「京都府教育委員会が総合選抜制の中で学区制を基本的に崩さずに、特別事情具申によって受入校を一校にまとめた」背景について、当時の京都の公立高等学校入学試験制度を概略的にも理解しておかなければならない。
(当時の学校教育制度では特殊学級特殊学級は義務教育段階まで国庫補助があったが、高校は義務教育終了と見なされ一切の補助制度はなかった。ただし、教育制度上は、特殊学級を置くことが出来るとされていた。1970年代初頭以降、高校に難聴学級を設置する問題では、沖縄県那覇市教育委員会が私学高校に難聴学級を設置した。)

 

  高等学校入学テストにおける平等

 

 京都府高等学校入学選抜(公立高校入学試験)は、京都府下の地域を大きく区分し、高校入学試験を行い、その試験の上位から順に合格者をきめて、合格者を公立高校に振り分けた。

 

 A公立高校を受験してA高校に合格するという単独選抜ではなかったために「総合選抜制」と呼ばれていた。

 

 ここで聴覚障害の生徒が京都市内に在住し、受験するなら合格高校を聴覚障害生徒受け入れ高校にすることが出来た。
 だが、京都市内以外の地域、京都府下の地域で受験し、その成績が京都市内の入学試験のボーダーを上回っていれば、京都市内の聴覚障害生徒受け入れ高校で合格とすることが出来たが、入学選抜の学区を越えて入学させることになる。

 だが、そうなると、総合選抜と学区制度が崩れる。と書かれている。

 

  教育制度と教育財政が
 フレキシブルな教育を疎外

 

 この記述で大切な事は、教育制度と義務教育そして義務教育でない高等学校教育における教育制度と教育財政のことが記述されている点である。

 

 教育学者や教師等の教育についての論述を読むと、教育制度や教育財政が個別に述べられていても、それを統合して思考することは少ないように思われる。

 

 1970年初頭以降、数十年経緯して高等学校における学級問題が話題になっているが、義務教育でないとして財政措置を行なわない文部省・文部科学省の対応についてメスを入れている論述は稀有であると考えるのは、問題があるだろうか。

 

 

 

ろう学校・普通学校・教育とはという基本を投げかける村上中正氏の1971年試論

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論についての中間的解説。

 

 村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟は、  村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求 についての概略的意見を綴っているものである。

 

戦後ろう学校で手話が禁止されていた
 とする根拠なき空論
 
 この1971年を思惟を綴っているのは、

 

1,戦後ろう学校で手話が禁止されていたとする根拠なき空論を検証するものである。幾度も述べる必要もないが、戦後、教育基本法で教育に対する行政の介入が禁止されていたことで、文部省や都道府県教育委員会は教育に対する直接的介入は出来なかった。

 にもかかわらず依然とろう学校では手話が禁止されていたと繰り返し「発表」されている。

 

  ろう学校の教師の教育
 取り組みの中で手話への不問


2,問題は、ろう学校における教師の教育に対する取り組みの中で手話がとり入れられていたかどうかという問題であるが、このことを叙述する意見はほとんどない。

 

 それは、戦後から1980年代にいたる残された諸文献などとヒヤリングを付き合わせながら事実と真実に迫る取り組みがなされていないからである。

 

 調査、検証なく恣意的に断定する傾向は、排除すべきであろう。

 

3,ろう学校教育と普通校での教育とその関連の及びそれぞれの特徴を活かしながら教育を論じることがほとんどなされていない。

 

  京都ろう学校高等部
 授業拒否事件の真相の回避

 

4,京都ろう学校の若干の歴史を見てみても、京都ろう学校高等部の授業拒否事件の表層は述べられてもその本質に迫る意見はほとんど見られず、手話の可否問題だけで論じられているのがほとんどである。

 

 しかも京都ろう学校高等部の事件であるにも関わらず高等部の生徒を支持し連帯し、教育の教訓を得た京都ろう学校の中学部の教師たちのことは「抹消」されていると言わざるを得ない状況である。

 

 では、京都ろう学校高等部の授業拒否事件の時の高等部教師のほとんどは何をしていたのか、その軌跡は全くない。

 

 「洞ヶ峠を決め込」んでいたとする記録はある。

 

 時系列で見てみると高等部教師の一部は、京都ろう学校高等部の授業拒否事件が忘れ去られた頃にあたかも自分が関わったかのような文を書いているが、事件の時、自分は何をしたのかの記述は全くない。

 

 書けない、という指摘があるのも頷ける。


 以上のことを包括して、ろう学校、普通学校、教育とは、という基本を投げかけている村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求及びそれに対する若干の考察を提供しているのが「村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟」である。