手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

聴覚障害者 も ともに人間解放の道のなかに

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      村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

   村上中正氏の1971年試論は、さらに現代的にも重大な提起をしている。

 

  予断と偏見の重圧を跳ね返す
 人々と手を携えて重圧からの解放を

 

 1968年から1970年代にかけて聴覚障害者の運動は「黎明期」とも言うべき時期を迎えていた。
 予断と偏見の重圧を跳ね返し、多くの人々と手を携えて人間尊重、重圧からの解放を目指す運動は高揚していた。
 その中に卒業生の姿があり、就学児もその流れに合流することで基本的人権を共有出来ると考えたのではないだろうか。

 人間解放の道の中に聴覚障害者も居る、歩んでいるとの熱い想いがあったのではなかろうか。
 

ろう学校の生徒は生徒たちだけなく
 難聴学級だけでなく
聞こえる生徒と連帯する 

 

○健聴との連帯を強め、そのために有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たすこと
 この部分は、解釈が分かれるところであったろう。ろう学校の生徒は生徒たちだけで結束するのではなく、難聴学教の生徒は難聴学級だけで結束するのではなく、聞こえる生徒と連帯する。

 ただなぜ、健聴者との連帯を強めるのに「有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割」を果たすとしたのかは充分な検討を加えることが出来なかった。

 この部分は、「京都ろう学校授業拒否」事件の時に中学部の村上中正氏らが、高等部の生徒に呼びかけ京都の高校生の討論集会に参加したことなどの教訓があることは考えられる。

と述べる。

 

  「京都ろう学校授業拒否」事件の教訓
 みちびきだされたろう学校教育

 

健聴との連帯を強め、そのために有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たす、表現はとても微妙ない意味を内包している。

 

 誤解を恐れず敢えて述べてみると、「京都ろう学校授業拒否」事件の教訓から導き出した学校教育の教訓ではなかろうか。

 

 「京都ろう学校授業拒否」事件の本質を「差別」として捉え、特化することを村上中正氏らは極力排除しようとしたのではないか。

 

 ろう学校で生じるさまざまな問題を「差別」とすることで、問題の根本や問題の解決の方向、具体的取り組みがむ失われるという大いなる危惧を抱いていたのではないだろうか。

 

「京都ろう学校授業拒否」事件
 「差別」で幕引き ではない と

 

 「京都ろう学校授業拒否」事件は、ろう学校の管理職や教育関係者が「差別」と認識したことで終結されたとも捉えることが出来る。

 

 その後の動きが「差別」で留められたのではないかという意見がある。

 

 ろう学校の教育で生じた問題は、ろう学校の教育として考えなければならないし、改善の方向を具体的に実践していくべきであった。

 

  京都ろう学校が抱え込んでいた矛盾

 

 「京都ろう学校授業拒否」事件が生じた主たる舞台であるろう学校高等部がそれを留意しないで、ろう学校中学部が教訓化・実践したことに当時の京都ろう学校が抱え込んでいた矛盾がある。

 

 さらに村上中正氏らは、「京都ろう学校授業拒否」事件の生徒会の中心メンバーが生徒をまとめていく様子を詳細に見ていたからこそ、「健聴との連帯を強め、そのために有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たす」と考えたのではないか。