村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論では、さらに以下のことを投げかける。
○聴覚障害者としての団結をもち続けること
ろう学校の教育で、聴覚障害者としての団結をもち続ける、という課題を提起すること自体、教育に離反するとも考えられる。
今日では、集団とか団結とかのことば自体がある思想の潮流として受けとめられる。当時の学校教育の分野で教師たちが論議したことを調べてみると憲法にたどり着く。
第二六条【教育を受ける権利、教育の義務】
1すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第二七条【勤労の権利及び義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止】
1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。3 児童は、これを酷使してはならない。
第二八条【勤労者の団結権】
勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
村上中正氏らは、聴覚障害児が教育を終え、生きていく社会でのことを熟慮してその時の教育を考えていたのではないか。
社会に出ても友人もなく孤独に苛まれていた聴覚障害者は少なくない。
予断や偏見にめげたりしている。
そういう人も含めて憲法に保障された団結権を単に労働の場だけと狭義に捉えるのではなく、聴覚障害者の団結権としても捉えるという発想であったのではないか。
学校教育を終えた生徒たちの生涯を見据えて
聴覚障害者が団結するとどのようなことが起きてきたのか、村上中正氏はあらゆる機会、あらゆる場所でその教訓を述べ、自らのろう学校教育に環流している。
この点では、同じろう学校の中で社会への発信を続けていたとされる同僚教師と対照的である。
聴覚障害者が対立を続けるのではなく大きくまとまる。
それを団結ということばで表現している村上中正氏。
※ 若かりし頃の村上中正氏。放課後、生徒たちと話をしている一コマ。手話ではなし、笑っている。京都ろう学校では、コミュニケーションの限定・規制・制限はなかった。生徒集会では主として手話で集会が行われていた。聴覚障害者が団結するためのコミュニケーション方法を村上中正氏は熟知していたとされる。
教育と労働を憲法から連動させて捉え、学校教育を終えた生徒たちの生涯を見据えていたのである。