村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
1971年試論で、
村上中正氏らは、「京都ろう学校授業拒否」事件の生徒会の中心メンバーが生徒をまとめていく様子を詳細に見ていたからこそ、「健聴との連帯を強め、そのために有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たす」と考えたのではないか。
と書かれている。
この部分の記述は理解しがたいことも多い。
「健聴との連帯を強め」るため「有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たす」とはどういうことなのか。
なぜ、難聴学級進学者が「積極的な役割をはたす」と述べたのかを考えてみた。
京都ろう学校で
学習課程が充分保障されていなかったが
この背景には、
ろう学校の現状について、村上中正氏はかなり複雑な思いで『「ことばのききとり」への見通しは期待できるものであった。しかし、当時の京都府立聾学校中学部の諸条件は、それさえも保障しえない状況」「教科学習の面でのおくれが2~3年、中学部1年でおおよそ小学校四年修了程度しか履習していない生徒」』と吐露している。
ことが関係しているようである。
ここで理解しておくべきことは、当時の教育課程上の基本の次二点を理解する事が前提になる。
教育課程上の教科をすべてを
決められた評価に達する成績を修める
履修とは、きめられた学科・課程などを習い修めること。
修得とは、習い覚えて身につけること。
などとされるが、当時の教育課程上では、平易に述べれば、
必修科目も含めて教育課程上の教科をすべてうけることを履修とし、修得とは、それらの教育課程上の教科をすべてを決められた評価に達する成績を修めることとも言えよう。
履修と修得の教育課程上の文言があったが、ともかく義務教育でも後に村上中正氏が教師となる高校でも、履修=修得とされていた。
即ち、中学校1年生として学習したならば1年生の教育課程はすべて取得されたと見なされていた。(履修と修得の分離等の解釈は省略。)
ろう学校の教育が「普通教育に準ずる」
とされていた基本と逸脱
1970年頃の京都ろう学校の小学部や中学部では「普通教育に準ずる」(注 準ずる、同等、同じと解釈する。)とされていたため京都ろう学校の小学部や中学部では、生徒たちは、小学校や中学校と同じ教育課程で学べるようにするのが前提であった。
だがしかし、京都ろう学校の小学部や中学部では、生徒たちは、小学校や中学校と同じ教育課程で学べるようにはされていなかった。
「中学部1年でおおよそ小学校四年修了程度」と書かれているように小中学校の教育課程から3年程度おくれた教育課程しか行なわれていなかったのである。
ろう学校で
読み書きが出来ないと
このことに関して一部の資料では「ろう学校で読み書きが出来る」ようになるのは無理であると公言してはばからないろう学校教師がいたとされる。
この矛盾の中で村上中正氏らは、小学校や中学校の難聴学級では定められた教育課程で生徒たちが教えられて、理解していると考えたとも思える。
これらの問題のすべてが、ろう学校から高等学校に異動した村上中正氏に突きつけられたことは間違いがないだろう。
また、そのことを知ったうえで異動したことも。
教育課程が充分保障されていないろう学校の生徒たち、難聴学級ではそれが保障されている、すこし、「誤解」をしたのが「難聴学級進学者が積極的な役割を果たす」という記述ではないか。
以上のことを前提に、「健聴との連帯を強めるため有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たす」ことをどのように考えたのか推測してみたい。