村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論では、
日本国憲法第97条には、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と記されています。
このように、人権は、もともと認められていたものではなく、人類の長い歴史の中で、人々が命をかけ、苦しみを乗り越えて獲得したものであり、数多くの試練に耐えて守られたものといえます。そして今後も、人権の概念はさらに発展していくものと考えられます。
と書かれている。
命をかけ、苦しみを乗り越えて獲得
試練に耐えて守られた
戦後、多くの聴覚障害者が憲法、基本的人権を学んだとされている。
とくに多くの感銘を得たのは、
「人権は、もともと認められていたものではなく、人類の長い歴史の中で、人々が命をかけ、苦しみを乗り越えて獲得したものであり、数多くの試練に耐えて守られたものといえます。そして今後も、人権の概念はさらに発展していくもの」
の部分であったとされている。
手話か口話かの選択を迫られ強要されて
ことは自分の固有の権利が守られいない
いくつかの記録を読むとそれまでのあらゆる生活を振り返り、新しい生き方を考えはじめた。
特に基本的人権を学んだ聴覚障害者から自分のコミュニケーションについて、
1,人はすべて生まれながらにして固有の他人に譲り渡すことのできない権利をもっているとされるならば、手話か口話かの選択を迫られたり、手話だけとか、口話だけでないと強要されてきたことは自分の固有の権利が守られいないことになるのでは。
国のやくに立たないものとして
さげすまれてきた すべておかしかった
2,戦前のろう学校の口話教室、手話教室などは本人の意思とは関係なく入級させらていた。
気がつけば、これらの事への「反発」も許されず、戦中には国の役に立たないものとしてさげすまれてきた。これらはすべておかしかったのだ。
3,人権の概念はさらに発展して行くためにも自分のコミュニケーション、みんなのコミュニケーションは、それぞれ尊重されなければならないのだ。
手話か口話かという問題でも、自分は手話を使うから口話で話する人を認めなかったり、口話で話をする人が、手話で話をする人を認めない、などのことはダメなこと。
お互いの立場や考え、方法を認めてこそ基本的人権を守ったことになるのだ。
などなどが繰り返し、話され、実行されたようである。
互いのコミュニケーションを認め合う
基本的人権の尊重
互いのコミュニケーションを認め合うことは基本的人権の尊重であるという考えは、次第に浸透したようである。
村上中正氏は、「人権は、もともと認められていたものではなく」「人類の長い歴史の中で人々が命をかけ、苦しみを乗り越えて獲得したもの」を教育の中でも生かそうとしたのではないか。