村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論には、
手話唯一と聴覚障害の人びとを
「分断」する動き
「聞こえの程度」がこれほどなのに「これほど聞きとれている」{優秀な生徒}などの記述は一切ない。
少しこのことで付記しておきたいのは、口話とインテグレーションが叫ばれていた時に、村上中正氏は近い将来に手話唯一として聴覚障害の人びとを「分断」する動きにも問題を投げかけていた。
当時の基準で「重度」とされる生徒は
少なかったろう学校
ろう学校には聴覚障害が「中等度」生徒が多く入学していた。むしろ、当時の基準で「重度ー高度ーろう」とされる生徒は少なかった。
ある生徒(中等度とされていた)がある生徒たち(重度とされていた)と友だちになりたくて話しかけた。
しゃべれて手話も知らないなら
友だちにならない
すると「しゃべれて手話も知らない」なら友だちにならないと言われた。
断られた生徒は、思い悩んで、声を出すことや音声を出すことを一切やめて、友だちの手話を一生懸命にみて、手振り身振りから手話での会話が出来るようになった。 ある時お母さんが、先生に「うちの子が声を出さないのです。」「しゃべれなくなったみたいで心配です。」と相談した。
そのことから、「しゃべれて手話も知らないなら友だちにならない」ということが村上中正氏の知るところとなった。
口話唯一とすることに反して
手話唯一とする対立構造
村上中正氏は、これは口話唯一とすることに反して手話唯一とする対立構造があることのひとつの表れでもあるが、聴覚障害児が自分たちと仲間のコミュニケーションを認め合わないという悲しむべき事態であると捉えた。
そして生徒たちに一定のことを教えて、援助した。
そのことをさらに教育課題と教育実践として提案し、実践で大きな教訓を導き出す。と書かれている。