手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

日本最初公認手話通訳者 の ろう教育への視点

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                           村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

  日本最初の公認手話通訳者  村上中正氏

 

 村上中正氏は、日本最初の公認手話通訳者である。(1971年京都市)
 

行政の長が、手話通訳者として公認したのだからろう学校以外の手話通訳の実績がかなりあったのだろう。

 

 その彼は、公認手話通訳者研修会で発表したり、討論したり、まとめをつくったりした記録が残されている。

 

 行政は、公認手話通訳者の自主性を尊重するとして干渉することはなかった。

 

手話は個々の聴覚障害者の
コミュニケーションとしてだけでなく

 

 当時の資料を読むと口話や聴能や空文字や読み書きなどの基本と尊重が話されかなり深い検討がされている。

 

 その中で、手話は個々の聴覚障害者のコミュニケーションとしてだけでなく、個々の聴覚障害者が意見を出し合う、それを「見て」参加者全員がそれぞれの意見を知る。

 

 一目瞭然であるとされる。

 

 さらにそれぞれの意見を知り、討論し、疑問や問題やその解決を手話で討論する。そして、まとまる。

 

参加者すべての人々に
公開されるコミュニケーション

 

 意見がまとまる過程は、参加者すべての人々にとって公開されたこととなる。隠しようがない。秘密に出来ない。

 

 この手話によるコミュニケーションを集団コミュニケーションの極めて有効な手段として公認手話通訳者は捉えていたようである。

 

 それ故、ろうあ協会との意見交換がなされていた。

 

 それらのことは、当時、京都府の幹部が、障害者福祉の基本は障害者を産まないことにあるなどと言ったことに対して激しい批判と京都府民への訴えなどの行動の原泉となっていったようである。

 

 ひとり一人でない、多数のコミュニケーションとしての手話が、実感された時代であったかも知れない。