村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論では、
村上中正氏は、聴覚障害者の集団を教育集団としても捉え、その行動とパワーに未来をも託していたようである。
集団は、人びとのあつまりや継続的な関係を持つ集合として考えられている。また集団を上下下達の縦指導の集まりと捉える人も居る。
ある特定の一致する目標を持ち、その目標のために行動する集団と捉えた時には、そこには組織が形成されなければならないことにもなるが。
はたして、どのような集団をイメージしていたのかを考察しておかないと次の村上中正氏の各論を論じることが出来ないようにも思えた。と書かれている。
主語抜き手話提起
人びとのあつまりや継続的な関係を持つ集合体としての集団からろ学校教育や聴覚障害教育や成人の聴覚障害者の問題を考える人は多くない。
それは、一人称で問題を投げかけたり、主語抜きで問題を述べることがある意味で安易であるからかもしれない。
近年の風潮は、主語抜きで問題を出す傾向が強い。
例えば、手話を強調して「迷惑」を手話でどのようにするのかと提起する。
そして「迷惑をかけた」「迷惑に思う」の「迷惑」の手話が同じようにするのはおかしいと断じる。
前提条件を示唆しないで、あれこれ言ってさも自分が手話を知っているかのようにする手法である。
主張に根拠と自信がないのか
誰が、誰に、など一切明らかにしないで手話のあり方を述べる。
これらの傾向で主張する人は、人びとのあつまりや継続的な関係を持つ集合体としての集団を捉えられないか、若しくは集団を没個性と断定する傾向に陥りやすいのではないか。
自己主張に根拠と自信がないが所以に主語ー主体を曖昧にするのかもしれない。
それでは、「集団的なコミュニケーションにおいての手話の役割」すら理解出来ないのではないかと思える。
村上中正氏の提起する集団は、没個性というものではなく「出個性」を充分に含んだことなのである。
手話を唯一を主張する人への提起として少し触れておきたい。