村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求
第二番目には、山城高等学校の聴覚障害教育の試行については、当時の教育行政の状態を把握しておかなければ評論出来ないことにある。
特に京都は、他府県と異なり見方によっては「特異な教育行政」が行われていたとされる。
勿論当時の京都府の教育行政が通常な教育行政として研究されている諸論文もある。
住民から出された教育要求をわずか
1年余で実施した京都府教育委員会の論理
注目すべきは、京都府の教育行政が、住民から出された教育要求をわずか1年余で実施しなければならないと教育行政が抱える諸問題をひとつ一つ検討して要求を実現したことにある。
難聴児親の会と手を結ぶろう学校教職員や教育諸団体から、中学校で学んだ「難聴児」が卒業すればその進路先を高等学校に求めるのは当然のことであった。
それは、ろう学校から普通校に入学・転入したときから自明のことであったとする。
しかし、教育行政の京都府教育委員会は、ろう学校から転出・入学などで受け入れたのは、京都市教育委員会であり、京都市立学校に難聴学級を設置してろう学校を拒否するようにした以上は京都市教育委員会が管理運営をする京都市立高等学校で対処すべきであると主張した。
教員の給与等の人件費の配分の問題
とろう学校、難聴学級
京都市は、特別指定都市のため義務教育段階の教職員の給与などの人件費の諸経費は、国と京都府で支給されていた。
だが、高等学校の教職員の給与等は国と京都市で支給されることになっていた。
従って京都府は、京都市こそが難聴親の会等の高等学校に難聴学級を設置してほしい、との願いを京都市立高等学校で実現できるし、そうすべきだろうと主張した。