communion of mind with mind
「そんなにうるさいの。」とたずねた加谷さん夫婦と話し合えたこと。
建前だけでなく本音で語り合えたことは、手話通訳をするためには重要な基礎的条件であったと今も思う。
手話テキストを前に、手話はこうするの、と「教えられ」「手話を知ったと思っても」それは、人間連帯と平等をめざす第一歩でしかない。
人間連帯と平等をめざす歩みをすすめると、さらに深い人間連帯と深い信頼が産まれる。
だから、加谷さん夫婦は包み隠さず話してくれたし、話を聞く方も包み隠さず話した。
「そんなにうるさいの。」とたずねた加谷さん夫婦に、聞えていたら「耐え難きうるささである」とハッキリ言えない人が増えているように聞く。
聞えない人たちだから、「耐え難きうるささである」と言えば、
聞えない人々を理解していないことになる、
傷つけることになる、
聞える側の傲慢さが出る、
などなど言う人がいるのは、深い人間連帯と深い信頼のうえで手話通訳をするという基本中の基本がを忘れていないだろうか、とさえ思う。
軍服を着た加谷さんの姿。
人間としての平等性が平和の中でこそ生き続けると逆説して訴えたかったんだと言われた、とも述べた。
従兄弟の軍服を借りて、着て記念写真を撮った加谷さんは、自分が軍人になられない徴兵制の烙印を押されたことへの「返礼」でもない。
自分も軍人になれるという意味で撮影した写真でもないと言い切った。
ここには、写真をうわべだけでみて欲しくないという加谷さんの主張が織り込まれていたのである。
手話で、従兄弟の軍服を借りて写真を撮った、と言う加谷さん。
なぜ、
どうして、
写真を獲ったの、と聞き返すことをしないで、手話を見て思いついた、思い込んだ、ことを手話を学ぶ人はしていないだろうか。
同じ人間として、手話を通して深い人間連帯と深い信頼を築くことを「避けて」はいないだろうか。
手話を表面的に受けとめ、手話テキストのマニュアル通に理解してはいけないという戒めがあることを加谷さんは教えてくれたように思える。
同時に、手話に籠められた逆説の表現、肯定の中にある否定の法則、があることも手話通訳をするものは、学ばなければ、理解しなければならないことを強く教えられたよう教えられたように思う。