手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

生き残って表現出来ない諸事情を乗り越え乗り越えして証言された手話・表現に人間尊厳の証を

  手話は、多彩で、個性的で、表現の知恵の塊である等々のコミュニケーションであって、日本に住む人びとによって創造されてきたものであると心に深く刻むべきだろう、と書いた。

 

  創造されてきた手話を
「打ち消すような」「まったく意味不明な」

だとされていないだろうか

 

 手話表現の多彩で、個性的で、表現の知恵の塊である等々のコミュニケーションであって、日本に住む人びとによって創造されてきたものである、と思うがゆえんにそれを「打ち消すような」「まったく意味不明な」手話を手話だ、これが正しい手話だ、とすることは、手話を創造・想像してきた人々に対する「侮辱」「侮蔑」ではないかとさえ思う。

 

日本における手話の「悲劇」は北欧のように記録保存され
 それを重んじ・基礎にされなかったことにある

 

 日本における手話の「悲劇」は、多彩で、個性的で、表現の知恵の塊である等々のコミュニケーションである手話が北欧のように記録保存され、それを重んじ・基礎にして「現存する手話では表現できない」ことを手話の組合せで表現する国家プロジェクトされなされなかったことにある。

 何らの調査も根拠もなく、

「手話の語彙数が数千である」

と決めつけた厚生官僚たちの思い込みで

「新しい手話」

の方途が打ち出され、

「標準語」

を決めて強要したと同じように「手話が画一化」されたのではないかと絶えず検証すること決して忘れてはならない。

 

彩で、個性的で、表現の知恵の塊である等々のコミュニケーションである手話」
過去の記録とその手話を使ってコミュニケーションしている人びとの手話を掘り起こし

 「客観的な記録・保存」をする

 

 では、どうするのか。

 今日の映像調査記録方法が、私たちの手で以前より「手話や手話表現を記録する」ことが出来る。

 

 国に依存しないで「標準」と決めつけないで「多彩で、個性的で、表現の知恵の塊である等々のコミュニケーションである手話」の過去の記録とその手話を使ってコミュニケーションしている人びとの「客観的に記録・保存」を掘り起こす、そして、伝統手話とか古い手話と決めつけずに手話を継承・発展することにあるのではないだろうか。

 

とき おそしではない
 現存する記録に「歴史的発掘」を


 とき遅し、と思う人がいるかもしてないが、戦前の手話が映像で記録されているのもある。NHKアーカイブとして放映されたものもある。

 

 ビデオがなかった時代は、16㎜フイルムで記録されているのも少なからずある。

 

 その手話を観て、言っていることがさっぱり解らないと投げ打つことなく。

 

 時代背景等も調査して理解する「歴史的発掘」をすれば、そこには現代に通じる聞えない人びとの情感と手話に流れる「魂」が理解出来るだろう。

 

 手話は、これだけ、こう「訳す」という画一的な物差しで明かれないからこそ、人間としての生きるためのものであったことが解り、それを糧に次世代に伝承出来るものである。

 

 被爆したろうあ者の表現した「原爆」

  の手話で表現してこそ

 

  8月が近づいて来た。

 

 せめて広島・長崎の祈念・記念集会では、原爆の手話を「爆弾・落ちる・下からきのこ雲」などで表さず、被爆したろうあ者の表現した「原爆」の手話で表現して欲しいとねがうのは生き残って表現出来ない状況を乗り越え、乗り越えして証言された人々に対する人間尊厳の証ではないか‥‥‥