手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手づかみで食べることから産まれた「微笑み返し」

 f:id:sakukorox:20201219193840j:plain


  ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

聴覚障害者の人びとは一生懸命 
  でもなんの反応も表さなかった

 

 未就学の聴覚障害者と出会って、十数年経ってしまったが。

 

 その人が、聴覚障害者の人たちの集まりに参加しはじめた最初の頃は、ただただじっとしているだけだった。

 

 周りの聴覚障害者の人が、身振りや手話で一生懸命話しかけるが、なんの反応も表さなかった。

 

 でも、素晴らしいと思ったのは、聴覚障害者の人々が話しかけるのを諦めなかったことだ。

 

 自分もあの人と同じだった。

 

 そのように言う人が数人いた。だからきっと何か出来るはず、と言うが時間だけが過ぎた。

 

  お腹が空きすぎている 
 手話や身振りで「食べる」に反応しない

 

 話が解りにくくなるので、未就学の聴覚障害者Aさんとして、他の聴覚障害者の人をB、C,D、Eさんとする。

 

 時間が経つ中でみんなはお腹が空きすぎているのに気がついた。

 

 昼食の時間は、過ぎていた。

 

 注文してあった弁当をテーブルの上に運んだ。

 

 Aさんは、運ばれる弁当を「追視」して、テーブルの上の一点に留まった。

 

 B、C,D、Eさんたちは、手話や身振りで「食べる」と聞いてみたがAさんからの反応がなかった。

 

 Cさんが、Aさんの前に弁当を置き、弁当の包みをほどいた。

 

 Cさんを見るAさん。Cさんは頷いたがAさんはじっとしていた。

 

 Cさんは、弁当をAさんの前にもう少し出して、みんなで弁当を食べ始めた。

 

 手づかみで食べる弁当
  でもとめずに時が経った

 

 用心していたAさんは、少し安心したのか、手づかみで弁当を食べ始めた。

 

 みんなは愕いた。

 

 DさんとEさんがあわてて手づかみで食べるのを止めさせようとした。が、BさんとCさんは、「そのまま」とDさんとEさんを止めて弁当を食べた。

 

  手づかみで食べる身振りに にっこり笑った

 

 手づかみで弁当を食べていたAさんが、少し手を休めた時、すかさずBさんは「手づかみで食べる身振り」をしてにっこり笑った。

 

 すると、Aさんは微笑んだ。BCDEさんらみんなも「微笑んだ」。

 

   左手に箸を持ち 右手で箸の手話

 

 みんなが満腹になった時に、Bさんが箸で食べている様子をして、左手に箸を持ち、右手で箸の手話をしてつまむ様子をした。

 

 Aさんは、それを見て、Bさんの箸の手話と同じようにしようとした。

 

 みんなは、拍手して微笑んだ。

 

 Aさんも微笑んだ。

 

 産まれた「微笑み返し」

 

 「微笑み返し」が産まれた。

 

 Aさんは、箸の手話も箸で食べることも知らなかったが、Bさんと同じことをするとみんなが喜ぶこと、自分も楽しいことを知った様子に思えた。

 

  箸で食べている姿に
   「いろいろあったんよ、」と

 

 月日が流れて、AさんやBCDEさん以外の人びとも集まっている時に、Aさんが箸を使って弁当を食べているのを見て愕いた。

 

 手づかみではなかった。

 

 Bさんは、「いろいろあったんよ、」とうれしそうに私に語ってくれた。

 

 

 

 

同じ身振りと手話の繰り返しから手話の伝播までに至る「法則」

f:id:sakukorox:20201219183612j:plain


                           ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  「手話の伝播」までに至る「法則」

 

  なかまには笑みがあふれ出してきた、との話。学ぶことと意味があるので少し心に留めておいて欲しい。

 

  同じ身振りと手話の繰り返しが続いたが、それから少しづつ手話が「伝播」して、さまざまな手話が飛び交うようになった、と書いてきた。

 

 「同じ身振りと手話の繰り返し」から「手話の伝播」までに至る「法則」があるように思えてならない。

 

  身振りは はしたないのか

 

 「身振り」は、原始的だから手話はもっと嫌いと瀬山君は言いつづけていたね。

 

 今はそうではないけれど。

 

 「身振り」を否定する人は日本では多いかも知れない。はなす時、身体を使って表現することは「はしたない」と何度も言われてきました。私も。

 

 だが、海外に行って身振りとはなしことばをすべて使い切って会話をしている様子を目の辺りにして、考え込んでしまった。

 

  これ(物)とあれ(物)など物々交換

 

 特に私の経験では、ラテン系とも言われる人びとの様子は、手話で会話するのと区別しようがないと思えたほどだった。

 ある国際空港で長時間待っている時に。

 

  それから歴史を遡って、交易の時にどのようにして「会話」をしたのかということと、数字の初まりについても調べてみた。

 

 数、は交易にとって欠かせない条件だからだ。

 

 さて、人類の交易のはじまりは、それぞれの地域の音声言語ではなかったはずだと思う。
 
 交易の時に何が必要だったのか。これ(物)とあれ(物)など物々交換したのではないか。

 

 その時に非常に有益だったのが身振りじゃないか、と考えている。

 

  人間同士が

こころを通う合わせることが出来る「法則」

 

 さて、さて、「同じ身振りと手話の繰り返し」から「手話の伝播」までに至る「法則」と書いたのは以上のことを考えていたことと、私自身が聴覚障害の未就学の人が聴覚障害の仲間の中で「話せる」ようになったことを実体験しているからだ。

 

 私の実体験は、ほんの一部でしかない。

 

 でも、人間同士がこころを通う合わせることが出来る「法則」があるように思えるので説明したい。

 

 

 

 

ともかく同じ身振りと手話をするのが楽しくてたまらない

f:id:sakukorox:20201217193444j:plain

 

       ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

 聴覚障害者の施設の廊下を歩いていると忘れることの出来ない娘さんに出会った。

 

 昔の面影は残しながも表情は生き生きしていた。

 

 ある聴覚障害者に同行して京都府下の小さな家を訪ねたと書いたが、同行した聴覚障害者が施設の責任者になっていて、聴覚障害者の施設が出来て真っ先に彼女が入所出来るようにしたと言う。

 

 噛みしめた「なかま」の言葉

 

 薄暗い家にじっとして人が来るとおびえていた面影は、消えていた。

 

 少しづつ人とのコミュニケーションが採れるようになっているという。

 

 施設に入っている人びとを「なかま」と言っている話を聞いて、なかま、という言葉を噛みしめた。

 

  ともかく同じ身振りと

 手話をするのが楽しくてたまらない

 

  未就学だった人もなかまに多くいた。

 

 その人たちは、最初はお互いに話が出来きず施設職員に頼ってばかりいたとのこと。

 

 ところが、少し手話を知っている人が、身振りと一緒に手話ですると、他の人も同じ身振りと手話をした。

 

 意味がわかっているのかどうかわからなかったけれど、ともかく同じ身振りと手話をするのが楽しくてたまらない、なかまの様子だったと施設職員が説明してくれた。

 

   少しづつ手話が「伝播」 こぼれる笑み

 

 同じ身振りと手話の繰り返しが続いたが、それから少しづつ手話が「伝播」して、さまざまな手話が飛び交うようになった。
 
 その手話が、わかっているのかどうか、と思い施設職員が注意深く見守っていると充分意味が伝わっていることが解った。

 と同時に、なかまには笑みがあふれ出してきた、と聞いた。

 

  聴覚障害者が学ぶことが大切だ、ということをこのことからも理解したのだが。

 

 

 

 

 

学ぶ権利を投げ捨てる権利だけ

f:id:sakukorox:20201217190745j:plain


                                     ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿


 聴覚障害者が学ぶことが大切だというの?という質問は、学校で、という意味も含まれているだろう。

 

学ぶ機会がいくらでもある
   今の時から過去を考えていないか

 

 学校に行けなかったら、学校以外で勉強したらいいと言うかも知れない。

 

 それは、学ぶ機会がいくらでもある今の時から過去を考えていないか。

 

  瀬山君は、ろう学校があることも知らないで育ったが、ろう学校があることすら知ろうとしなかった。そのことで、いろいろな人があなたに話をして考え込んでいたね。

 

 学校がたくさんあって、どこへ行こうかと「迷える」ことの大切さと同時に「迷う」ことすらない時のことを知ることによって、今の君が分かるかも知れない。

 

  ろう学校に入学出来るのは裕福な人たち

 

  ともかく、戦前も戦後も聴覚障害の人が学ぶ場は、限られていた。

 

 ろう学校に入学出来るのは裕福な人たちだった。

 

 戦前は当然のこととして、戦後も。

 

 でもそれが大変革の時期を迎えて、大きく変る。

     その後の今があることを知って欲しい。

 

   学ぶ権利は保障されてこそ権利

 

 どこの学校へいこうと権利だ、と言っていたけれどたしかにそうだと思う。

 

 学ぶ権利は本人にあるはずだし、そのように憲法では書かれている。

 

 だがしかし、学ぶ権利は保障されてこそ権利と言えるのではないだろうか。

 

 農村地帯の集落の端の家にすむ聴覚障害者とお母さんには、その保障が生きてはいなかった。

 あったのは、「学ぶ権利を投げ捨てる権利」でしかなかった。

 

 この哀しみの事実をしっかり知って、聴覚障害者が学ぶことが大切だ、という意味を先ず噛みしめて欲しいと思う。

 

    沈黙の量がはるかに多い会話の末に

 

 聴覚障害者とお母さんの二人暮らしの家。

     あらゆる事の責任が母親の細身に投げつけられていた。

 

     沈黙の量がはるかに多い会話。

 

   しばらくして恐る恐る顔を出した娘さんの顔は、幼さの中に老いが現れていた。

 

 お母さんは、泣くだけで、娘さんは天井を見つめるだけ。

 

 刻々と時間が経ったけれど何も言えなくなってとぼとぼとその家を後にした。

 

  そっとしておいてあげたほうがお二人のために
   静かに暮らしてこられたのだから

 

 当然、お母さんと娘さんが今以上の生活が出来るように、その娘さんの未来をどうしたらいいのかと奔走した。

 

 役所も教育委員会も多くの人も

 

「今のままに、そっとしておいてあげたほうがお二人のためになる。」

「静かに暮らしてこられたのだから、そっとしてあげないと」

 

と言う。

 

 心の奥底にどっしりした重さが残ったが、それから時間のみが過ぎ去っていった。

 

 それからずいぶん時間が経って、ある聴覚障害者の施設を訪れた。

 

 

聴覚障害の子は産まれてからほとんど家を出ることはなかった

f:id:sakukorox:20201216184916j:plain


                                     ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

 聴覚障害者が学ぶことが大切だというの?

 

  未就学の聴覚障害者の未来

 

 ある聴覚障害者に同行して京都府下の小さな家を訪ねた。駅から歩いてとても時間がかかった。

 

 農村地帯の集落の端。他の家と比べると「納屋」かと思えたほどの家。

 

 訪ねて、家に入ったとたん、サーッと人影が消えた。

 

 お母さんが出てきて話が始まった。

 

  これから先のことは考えるすべもない

 

 お母さんと娘の二人暮らし。

 

 周りの家々との交流はほとんどない。

 

 いや閉ざされていた。

 

 聞こえないというだけでも肩身が狭いのに娘は、まともでない。
 身の回りも充分出来ないまま。

 

 お母さんは年老い過ぎた。娘も年老いた。

 

 これから先のことは考えるすべもない、とお母さんは言う。

 

 もちろん娘さんは「未就学」だった。

 

    家がすべての世界

 

 生まれてから、この子はほとんど家を出ることはなかった、と言う。

 

 家が自分の世界であり、すべてだった。

 

 それ以外は何もない。

 

 本当に何もない。

 

  親が教育を受けさせる「義務」

   義務教育を受けなければならない

 

 就学免除が生きていた時代。

 と言っても解らないと思うが、子どもには親が教育を受けさせる「義務」があり、子どもたちは義務教育を受けなければならない。

 

 瀬山君は、学校がある、学校にも行けない、学べない、人びとがいたことなど想像出来ないだろう。

 

 親が教育を受けさせる「義務」を負わされていて、子どもが学校に行けないと、学ばせない、学べない、とされた場合は、親が学校に行くことを待ってもらう「就学猶予」と学校に行かない「就学免除」がある。

 

  お母さんが、「就学免除」届けを出し

 

 未就学の娘さんは就学時、小学校に入学する前にお母さんが、「就学免除」届けを出して、それから学校で学ぶ、学校外で学ぶということが一切出来なくさせられていた。

 

  ここで、これまで書いた義務教育についての説明は「間違って」いると思うだろう。

 

 親や子どもに義務教育の責任はないはずだ、と。

 

 そうなんだ。

 

 そうなんだけれど実際は、親に義務教育のすべての責任を負わせていたことがあったとしか書けない。

 

 

 

 

「聴覚障害で困ったことは?」「何にもない」

f:id:sakukorox:20201216161230j:plain


                                     ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  聴覚障害で困ったことは なんにもない
  お母さんがしてくれる

 

 あなたの友人(仮名 瀬山君)から少し違った質問があり、それに対して書いた手紙のコピ-を同封しておきますので合わせて読んでみて下さい、と書いておきましたが、彼に宛てた手紙に少し注釈を書いておきます。具体的な例は、仲間の人から拝借した文もあります。

 

 瀬山君は、あなたもよく知っているように16歳の時、「聴覚障害で困ったことは?」と聞かれて「何にもない」と答えましたね。

 

 あなたが、何度も聞いても「何もない」と言いつづけ、終いには「お母さんが何でもしてくれるから、困ったことはない」と言い出した。

 

 あなたは「それはおかしい」「なんでもお母さんがしてくれるの。」「じゃあ、お母さんが困っているのじゃないの」とまではなしたため瀬山君は頭を抱え込んでしまいましたね。

 

   聴覚障害で困ったことを探して

 

 あれから瀬山君は、自分自身が「聴覚障害で困ったこと」を考え続けています。

 

 何度も何度も質問がありましたが、自分なりの考えも持てるようになり、最近はお母さんに「苦労かけて‥‥‥」と言うようになっています。

 

 彼の質問と返事を紹介します。

 

  昔と言っても少し前の聴覚障害者は、

どんなことで困っていたんですか?

 

 十年一昔、という言葉があるが、今日の聴覚障害教育を取り巻く状況は、大きく変わったようにも見える。

 

 数十年前の聴覚障害者にとっては、生活そのものが「コミュニケーションの壁」との「闘い」であり「苦悩」の連続と「あきらめ」を余儀なくさせられていた面もある。

 

 例えば物ひとつを買うことについても聴覚障害者に苦労があったと言う。

 

   たまった小銭と買い物

 

 ある人は、買い物に行って帰ると多くの小銭がポケットに溜った、と言う。

 

 買いたいものの値段を聞く事が出来ないためついつい札を出し、お釣りで値段を確かめるという事が習慣化されていたためである。

 

   買い物で店の人と会話することがなくなったが

 

 物を買うのに店の人に値段を聞く、考える、時には値切る、ということが出来なかったと言う。

 

 その悩みが聴覚障害者からよく出されていた。

 

 もちろん顔見知りになっている商店街の店の人とは、信頼関係と心の行き来はあったのだが、見ず知らずの店となると多くの不安を抱え込まざるを得なかった。

 

 しかし、今日、物を買うという場合、店の人と会話を交わすことなく欲しい物が手にはいるという社会状況がすすんできている。

 

 健聴者でも一日、人と話することなく生活する、という話もよく耳にする。

 

  昔と比べて生活しやすい社会になってきている
   と理解していいの

 

 この社会状況の変化はほんの一例であるが、人間同士の会話は「変化」してきているため聴覚障害者にとって、昔と比べて生活しやすい社会になってきている、と理解していいのだろうか。

 

 人間の基本を見据えた聴覚障害者の問題を考えなければならない段階に来ているように思うが。

 

 

 

 

最高の手話通訳 トップレベルの手話通訳 はいない 螺旋階段を「登り切ったと思う人」

f:id:sakukorox:20201215210807j:plain


                                     ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

    本当に言いたいことを手話で表現が出来る

 

  あなたは、「受け身の手話」ではなく、「手話」はあなたのものでもあることも理解して、あなたの本当に言いたいことを手話で表現が出来るようになってきていますね。

 

 人間の成長も手話を覚え駆使することも、螺旋階段を昇るように少しずつ「成長」していきます。

 

  螺旋階段を昇るように成長する 少しづつ

 

 螺旋階段の上に「登り切ったと思う人」が、下の螺旋階段を昇っている人を見ると「同じ処をぐるぐる回っているだけだ」と思ったり、決めつけたりすることがあります。

 

 たしかに螺旋階段が大きければ大きいほど、「自分は同じ処をぐるぐる回っているだけ」と思えたりします。

 

 でも、ぐるぐる回っていて同じ階段に居ると思っていても、少しづつ昇っているのです。

 

 少しづつ。

 

 昇れずに留まった人は、横の廊下を歩けば、一つ下の階とは違う世界が拡がるのです。

 

  自分が昇って居ることに気づかない
   同じ処をぐるぐる回っているように思い

 

 同じ処をぐるぐる回っているように思いながら、自分が昇って居ることに気づかないことが多いものです。

 

 あえて言うなら、螺旋階段の上に「登り切ったと思う人」はまだその上にある螺旋階段を見ようとはしていないのです。

 

 手話を学ぶ時も同じことが言えるでしょう。

 

  「ああいうのは手話でありません」と言う人は

 

 螺旋階段の上に「登り切ったと思う人」は、あなたの友人は必死になって新年会のすべて指文字で伝え、あなたも目を皿のようにしてそれを見ていることを「ああいうのは手話でありません」「指文字でするより手話をしなさい」と言ったりするんじゃないかと思います。

 

 あなたも、あなたの友人もそのことで一時期悩むかも知れません。

 

 でもそれは、ゆっくり回り道をしながら指文字でなんとかあなたにみんなの話していることを伝えながら手話を覚えようとするあなたの友人を、「貶める」以外のなにものでも無いのです。

 

  手話や手話通訳の頂点はありません

 

 手話や手話通訳の頂点はありません。

 

 一定の階段を上り詰めた、一定の階段に居るだけで、螺旋階段は天まで伸びています。

 

 だから、ベテランの手話通訳であっても、最高の手話通訳とか、トップレベルの手話通訳とはなり得ないのです。

 

  分からないと言えない手話通訳

     教えてと言えない手話通訳

 

 手話通訳者の中で高く評価される手話通訳の人が、ろうあ者のかたがたの手話ではなしていることがわからず、分からないと言えないので適当に通訳したかのようにはなしを伝えたり、ろうあ者の手話を適切なことばにあてはめないで、自分のことばではなすことがありました。

 

 最高の手話通訳とか、トップレベルの手話通訳とはなり得ない、居ない、と私は考えています。

 

 ろうあ者のかたがたの手話ではなしていることがわからず、分からないと言えない、こと事態が手話通訳する資格はないと思いました。

 

 手話ではなしていることが分からないと言い、聞いて教えてもらう事が出来ないのです。

 

 このことは、基本的人権を尊重していることでないと思うのですが。あなたはどのような考えでしょうか。