ある聴覚障害者との書簡 1993年 寄稿
部分を見て全体を忘れ
部分を見て全体を忘れたり
全体を見て部分を忘れたり
する事のないよう部分と全体を踏まえたとらえ方が必要です。
初めて知ったみんなで話し合っていたことを
お手紙ありがとう。
あなたたちの間で話し合われていたことを初めて知りました。
聴覚障害生徒の中に自分のことなのに聴覚障害の生徒全体のことのように言う傾向がありました。
「聴覚障害のひとは補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます。」
ということについて、あなたやみんなで話し合ったことが書かれていました。
私の知らなかったことも多くあり感動しています。
補聴器だけで
聞こえない聴覚障害の生徒もいるんじゃないの
でも最初は健聴の生徒から、
「聴覚障害のひとは補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます。」と言った聴覚障害の生徒に
「あなたは、補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます、って言うけれど、補聴器だけで聞こえない聴覚障害の生徒もいるんじゃないの。」
「補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます、は、あなたのことであって、聴覚障害の生徒のみんなのことのように話すのはおかしい。」
との話があって、健聴の生徒が聴覚障害の生徒ひとり一人に補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえるの?って聞いて回ったことがあったんですね。
困りはてた聴覚障害の生徒が
「聴覚障害のひとは補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます。」
と言った聴覚障害の生徒は困りはてて、あなたにどうしようと相談があったんですね。
だから、聴覚障害の生徒が集まって話し合いをした。
考えさせられました。
そうかな、でもまてよ、
そうでない人もいる、と考え
普通は、「補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます。」と言われたらそれを信じ込む人が多いですが。
そうかな、でもまてよ、そうでない人もいる、と健聴の生徒が考えたんですね。
それを胸にしまい込むだけでなく確かめる行動をした。
とても大切なことだと思います。
それと共に聴覚障害の生徒が複数いて、多くの健聴の生徒と友だちになっていた。
思ったり、感じたりしたことを「仕舞い込む」のではなく、意見を交流することが出来ていたんですね。
聴覚障害の自分たちはどうなの
さらに、それを受けて聴覚障害の生徒が集まって「補聴器をかければ健聴のひとの言うことが聞こえます。」と言ったことをみんなで話し合っていたんですね。
聴覚障害のことを理解する、ということが健聴の人びとだけではなく、聴覚障害の自分たちはどうなのか、ということまで話し合ったとは。