手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校の生徒や卒業生たちを全面否定 まかり通る人格否定のなかで

f:id:sakukorox:20211030204516j:plain

                       村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

  インテグレーションやインテグレーションして育ったとされる聴覚障害者のことや聴覚障害者自身が発する評価は多く知ることができる。

 

 それらを読み進めてきたが、「自己表出」「敵愾心」「疑問」などのことが記述されていることはあまり知り得なかった。
 
 村上中正氏は、そのことを推し量っていたのだろうか、以下、村上中正氏の1971年試論の探求ではさらに厳しい提起をしている。以下そのことを掲載する。

 

ろう学校で学ぶ生徒やろう学校の卒業生たちを

「全面否定」「あのような人にならない」と

 

村上中正氏の1971年試論の探求では、

 

 ところが、インテグレーションを試行する人々の多くは、乳幼児期から成人期を考えて、ろう学校の卒業生たちを全面否定する単純な「考え」を組み立てていた。それは、彼等の人格を踏みにじり、否定するものでもあった。このような環流は、相互環流ではなかった。だが、そのことがまかり通っていた。
 1965年を前後して、京都ろう学校幼稚部では、他の学部と別に普通学校への「インテグレーション」へと急激に傾注する。そのためその様子をエリートインテグレーションとも言う人々も現れた。「インテグレーション」の指導の中で、ろう学校で学ぶ生徒やろう学校の卒業生たちは「全面否定」され、「あのような人にならない」為にこそインテグレーションしなければとの基盤の上に進められた。

 

「普通の人間」なるためのインテグレーション

 

 いわゆる「ろうあ者」や「ろう団体」などを否定し、さらに「難聴」なども認めず、兎にも角にも「普通の人間」なるためのインテグレーションであった。それを誰が主張したかは文章の記録がないため定かでない。だが、確実に「聴覚障害児が普通児になる」との「幻想」を与え、信じていた人びとが増加の一途をたどった。

 

聴覚障害児の家族には「インテグレーション」
ということばは心地よく励みになっていたのかも

 

 インテグレーションが行われた当時の社会風潮は、聴覚障害児・者を排除する傾向が強烈に存在した。ある著名人は、聴覚障害者や視覚障害者は「殺したほうがいい」と公然と言っていたほどである。この著名人に村上中正氏は、全国に呼びかけ怒りを持って全面批判し続けたことはその当時よく知られている。

 社会の動きに抗うよりも「普通児」になったほうが、現状の苦しみから脱して将来を見通せる。そう思いこます社会状況。教育や社会保障の貧困、人びとの障害児者に対する問題がさらに同意の拍車をかけた。

 

 「孤立無援」の心情に追い込まれていた聴覚障害児の家族には、「インテグレーション」ということばは、心地よく励みになっていたのかも知れない。

 

と記している。