村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論の探求は、さらに次のように述べる。
作り笑いでないこころからの笑顔と手話と生徒
わずか3秒の手話の中に、いろいろあるけれど、いろいろ出来ないかも知れないが、約束したよ、と締めくくる、ことが見てとれると述べた。
「約束だから守りなさい!!」という教師によく見られる高圧的なことばでないことは、村上中正氏の表情を観ても解るのである。笑顔な表情は、作り笑いで決して表出出来るものではない。
表情。生徒たちが注視したのはこのことに尽きると言っても過言でない。
表情でも、口の動きではない。
口話中心や口話を強調する人びとはとかく口への注視を主張する。
手話のみを強調する人びともその傾向が強い。
ところが手話における表情、特に目線や眼の動きを強調することは少ない。
それは、なぜか。
手話を手指の動きや口の動きに拘っている
手話を手指の動きや口の動きに拘っている傾向が強すぎるからである。
手話が、人間の全身から「発信」されることを考えていないからだろうか。
村上中正氏の表情は柔和な表情だけで無い。怒る時は阿修羅の形相になることはよく知られている。
ろう学校の生徒は、その実体験から学習したのであろうか、ことばや文字や口話や手話だけでなく、表情で教師の言っている本質を見抜くところがある。
村上中正氏は、ろう学校の生徒と接する場合も、純でなければならない、と主張していたようであるが、その考えはその考えは肯定出来る。
教師が真実を言っているのか
まやかしを言っているのか
その場その場のいいわけを言っているのか
を見抜く生徒の力の形成
翻って考えるならば、1965年の京都府立ろう学校授業拒否事件は手話か口話かというように一面的な理解が先行しているが、生徒たちが教師が真実を言っているのか、まやかしを言っているのか、その場その場のいいわけを言っているのかを教師の表情で見抜いていた側面を見逃してはならないのである。
このことは、1970年から成人した当時の生徒たちのヒヤリングでも明らかにされている。
断定条件の基本的誤り
何も知らない生徒‥‥‥聞こえないから解らない生徒
1965年の京都府立ろう学校授業拒否事件は、今日とても有名になっている。いろいろな場面や時期にそれは取りあげられてきた。
だだし、ろう学校の生徒が「教師が真実を言っているのか、まやかしを言っているのか、その場その場のいいわけを言っているのかを教師の表情で見抜いていた」が所以に「騒動」になったことはあまり描かれていない。
むしろ何も知らない生徒‥‥‥聞こえないから解らない生徒‥‥‥を前提にさまざまな理解され解釈されているのではないか。
京都府立ろう学校授業拒否事件に至る経過とその後。
事件の解釈ではなく事件から教師が何を学び、その後のろう学校教育を考えたのかが系統的に解明されていない。
それ故、村上中正氏の1971年試論の探求は検討に値する。
人間の持つすべての能力を発揮して生徒と教師が
とくにろう学校の教育では、伝達手段を特化するだけではその教育は成立しないこと。
人間の持つすべての能力を発揮して生徒と教師が「交信」することで生徒の内実が形成され教育作用が効果を上げることが学校教育時期を越えて考えられている。
これらの事実は、本当に存在し、実行されていたのだろうかと訝しく思えてならないが。