手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

聴覚障害者が手話通訳をみて大きく頷く 学校にも行けず文字も読めないが

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                 村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
 
村上中正氏の1971年試論の探求は引き続き九歳の壁を論じている。

 

「九歳の壁」を乗り越えられたとする生徒
自分なりに咀嚼し自己表出できにくくなって
自分を取り巻く周辺に敵愾心を抱いたりする可能性


 「九歳の壁」を乗り越えられたとする生徒は、たしかに比較的音声は明瞭に発語でき、文字を読むことができている。だが、ことばを操作することや文字を連関させたり、それを自分の中に取り込み、自分なりに咀嚼し、自己表出できにくくなっているのではないか。
 近い将来、その生徒たちがそれまでの自己を極端に否定したり、自分を取り巻く周辺に敵愾心を抱いたりする可能性があると心を砕く必要がある。

 

「九歳の壁」で「躓いている」とされている生徒
自己表出や自分なりの疑問を出して

 

 逆に「九歳の壁」で「躓いている」とされている生徒の多くは、音声は充分明瞭に発語できなくても、充分文字を読むことが出来なくても、自己表出や自分なりの疑問を出していた。授業で質問し自分なりの理解をしようとする傾向がみられる、など提起を教師の研究集会で発言している。

 

教育制度上の学校進行があったとしても

   それぞれの相互還流があってこそ

 

 「九歳の壁」を乳幼児期から学童期にかけての問題としてではなく、乳幼児期、学童期、思春期、青年期、成人期、老齢期などの連続して捉えるべきである。例えば、思春期から学童期、乳幼児期を考えるようにその逆も思考すべきであると主張していた。すなわち、人間発達におけるそれぞれの時期区分をしたとしても、教育制度上の学校進行があったとしてもそれぞれの相互還流があってこそ、教育は成立する。
 人が産まれてから以降死ぬまでの時期を思考して、それぞれの時期区分の中で教育の役割とその重点、教育内容を考えることが大切だとした。

 

とするが。

 

教育区分はされているが その関連は

 

  人間発達における時期区分・教育制度上の学校進行があってもそれぞれの相互還流があってこそ教育は成立するとする論述は、かなり論理の飛躍があるようにも思える。

 

 このことを解くキーは、人として産まれ死ぬまでの時期を考え、それぞれの時期の教育と、教育の内容を考えることを想定しているのだろう。

 

 たしかに現在日本の状況を考えると、就学前教育、就学後、中等教育、高等教育とそれぞれの段階の区分はされている。その段階の関連性の追求は充分行なわれているとは言いがたいだろう。

 

学校にも行けず文字も読めない聴覚障害者が

   手話通訳をみて度々大きく頷く

 

 このことだけに留まらず、いわゆる学校での教育でない生涯を通じた教育がもとめられるしその内実を考えなければならないとする。

 これらの教育に対する考えは、村上中正氏が主として聴覚障害者の全生活を知り、そこからの教訓を取り入れたのではないかと思われる。

 

 彼の報告には、学校に行けず孤独な生活を送っていた聴覚障害者の全容と学ぶ中で獲得されたことが記されている。

 

 村上中正氏と同時期手話通訳に関わった人の記述には、

 

 村上中正氏の手話や手話通訳は、学校にも行けず、文字も読めない聴覚障害者が手話通訳をみて度々大きく頷くまでの技量があった。

 

とされている。