手話 と 手話通訳

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高校に難聴学級を設置し全員入学か 入学試験制度を維持して合格すれば保障か

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟

 

高等学校の聴覚障害者入学制度の改善と課題

 

 村上中正氏の1971年試論では、

  聴覚障害児の後期中等教育をめぐる普通科での教育は、聴覚障害者教育の歴史のそれまでとその後を「塗り替える」大問題を内包していた。
 1969年から1970年にかけて聴覚障害者教育は、大きな転機を迎える。
 これに対して村上中正氏は、基本的視点を明らかにしているがまさか自分が当該高等学校に行くとは予想していなかったようである。

 

  氏は次のように説明している。
(3)京都府教育委員会聴覚障害生徒の高校における教育保障の方針は、二条中学校難聴学級生徒の父母の要求に応えたものではあるが、若干の不一致点をもっていた。
 つまり、
「高校に難聴学級を設置し、そこへ対象生徒を全員入学させてほしい」
という父母のねがいに対して、府教委は、「総合選抜制」の中で「学区制を基本的に崩さずに、特別事情具申によって受入校を一校にまとめた」ために、全日制では普通科と商業科、定時制では普通科に限られるものであった。

 

 二条中学校の当該生徒八人は全員が全日制を志望したが選抜にもれ、それぞれが私学、または第二次募集によって定時制に入学することになった。

 結局、保障措置による生徒は、全日制二名(一般の中学校と養護く肢体〉学校から)、定時制六名(二条中四名、聾中・聾高卒各一名)であり、他に二条中学校から私学へ入学したもの四名(K商高三、K学園高〈女子〉一)であった。
聴覚障害生徒の高校における教育保障の「不一致点」と想定出来る問題と教育課題を明らかにしている。

 

  公立高校入学制度と聴覚障害

 

 ここで、京都府教育委員会

  「総合選抜制」の中で「学区制を基本的に崩さずに、特別事情具申によって受入校を一校にまとめた」ために、全日制では普通科と商業科、定時制では普通科に限られる、と述ている事については現在の教育制度や教育状況から考えて理解が困難であるかも知れない。

 

 当時、京都府教育委員会は、「高校三原則」と呼ばれる教育制度を堅持し続けようとしていた。

  「高校三原則」は、戦後の学制改革で実施された、新制高等学校教育で打ち出された「小学区制・総合制・男女共学」の三つの原則のことである。

・小学区制は、通学区域をできるだけ小さくして、通学区域内の進学希望者はすべて地域の学校で無料で受け入れることを目的とした制度であった。

・総合制は、同一高校の中に普通科専門学科など多様な課程・学科を置き、他学科開講の科目の学習や生徒間の交流などの中で生徒の全面的な発達を企図したものであった。

・男女共学は、戦前の男女別に進学できる上級学校に違いがあり、教育内容も大きく異なっていたことから、男女間の格差の是正をなくすための制度であった。

 

  この高校三原則を、それぞれの都道府県が実施するための地方財政上の裏付けと援助がなかった。

 そのため戦後、高校の設置者である各都道府県、政令都市は、次々と「高校三原則」を崩し続けた。

 京都府は、その中でも高校三原則の原則すべての内容を継続出来ないが京都府財政をやりくりしながら高校三原則を守ろうとしていた京都府教育委員会の要望に応えていた。

 

  高校に難聴学級を設置し全員入学か
 入学試験制度を維持して合格すれば保障か

 

 この非常に「微妙な時期」に、


  「高校に難聴学級を設置し、そこへ対象生徒を全員入学させてほしい」


という要望を京都府教育委員会が受け入れることは、広範囲から受験する聴覚障害の生徒の受験と入学を認めることになり、小学区制とそれに伴う高校受験総合選抜を崩さなければならなくなるという問題に直面したのである。

 そのことは、高校生すべてにとっても、聴覚障害の生徒にとっても願わしいものであるのかなどなどが京都府教育委員会内部で検討されたことなどは、当時の京都府府議会議事録にも残っている。
(注 京都府議会では、高校三原則の存続をめぐって絶えず意見が対立していた。)と書かれている。